アカリちゃんとコウノくん◆学生編

不幸なわたしと、夕暮れの邂逅

 突然だが、わたしは不幸だ。

 一週間の仕事納めである金曜日の夕方、わたしは大学の校舎の片隅で腐っていた。
 今日は教職科目の講義で模擬授業を行い、わたしが壇上へ立つこととなったのだが、わたしはそこで大失敗をやらかした後だった。
 かねてより上がり症の気のあるわたしだが、完全に気負ってしまい学生の眼の集中する中で一言も発することができなくなってしまったのだ。5分ほど意味のない空白を置いた後、どうにか声を絞り出して、震える足をギシギシと動かしながら授業をしたは良いが、事前に書いた指導案の内容を半分もすっとばし、入念に練ったはずの計画は総崩れとなって終わった。
 苦笑しながらも「ここが良かったよ〜」と評価をくれる友達。とりあえず3回ほど自分を殺したい衝動に駆られたが、そこはさらに自分を押し殺して耐え抜いた。明日になったらいつの間にか首を吊ってるかもしれない。
 というわけで、教室から逃げ出そうとする身体を一生懸命なだめて、残りの時間を終え、わたしはここへ駆け込んだ。
 大学の学部棟の裏手で、芝生を敷き詰めた中庭のようになった場所だが、夕方ともなると人も来ない。冬も近くなればなおさらだ。
 わたしはコートを透かして入って来る寒風だか、先ほどの失敗に対する羞恥心だかに身体をぶるりと震わせた。一人で悩んでも詮ないこととは思いつつも、今はとにかく一人になりたかった。
 裏庭の隅に申し訳程度に置かれている木造りのベンチに腰を下ろし、わたしは夜の近付きつつある空を見上げた。東には薄い青が去り、西からは濃紺の夜が迫るのが見えた。太陽は一瞬前に沈んだようで、遠くに見える山の際を光が象っていた。
 空を見るのは好きだ。時々、デジカメ片手に外へ出ては、空の写真を撮りためるのがわたしの密かな趣味だった。パソコンに取り込んだ画像を眺めては、こんな空のときに天国へ昇りたいなー、などとニヤニヤしていたりするのも勿論内緒だ。

「はぁ……」

 何度目か分からないため息。ため息は幸せが逃げるというが、おそらくわたしに幸せなんて残っていない。いっそ頭が常にハッピーな人間になれたら、なんて不謹慎なことを考えてしまうくらい、わたしには幸せが足りていない、……気がする。
 幸も不幸も心の持ちようだとは言うが、そんなのきっと元から幸せをいっぱい持っている人の言い分なのだ。声を大にして言いたいが、どう見ても変質者の行動になるのでぐっと堪えた。さっきから我慢してばっかり、わたしはやっぱり不幸だ。
 その結論に達したところで、わたしは上を向いていた頭を、今度は足元の芝生に向けた。自分の影が眼に入り、……もう一つ影が見えた。横に。
 わたしはその影をまじまじと見つめ、そのままもう一度顔を上げた。

 反射的にベンチから飛びのいた。かつてない反射神経で。やればできるじゃん、わたし。
 ……ではなくて。

「ん? あれ、もう帰っちゃうの? もうちょっと付き合ってよ」

 ベンチに座ったわたしの隣に、いつの間にか見知らぬ人間が座っていた。
 白シャツの上にピンク色のベストを着た、たぶん男の人。細見のジーンズで包んだ足は、女も羨む細さと長さだ。学生だろうか。
 彼はスケッチブックを広げ、右手に鉛筆を持っていた。ちらりと見えた白紙には、下書きらしい乱雑な線がいくつも引かれ、人の顔のようなものを形作っていた。
 言葉を発せないでいるわたしに、彼は首を傾げる。その小顔に不釣り合いな大きな黒縁メガネが、それに合わせてガクっとずれた。

「今すごくいいトコロだったんだよ。あんたのその物憂げな顔と夕暮れ時っていうのがすごくマッチしててさ、俺の中になんかこう、インスピレーションが降ってきてたトコロなの」
「だ、だからって、ひと……人を勝手にモデルにしないでよ。ってか、せめて声かけてっ!」

 ようやく声を発したわたしは、それで一気に緊張の糸が吹っ切れて、へたりと芝生に座りこんでしまった。今日は厄日だ。幸薄いこの人生の中でもきっととびきり不幸な日だ。最悪だ。

「んん? 声かけてなかったか? 声……そーいやかけてなかったか。ははは」

 なぜそこで笑う。わたしは恨みを込めてその男を睨みつけた。

「あ! 動かないで、今の顔の角度すごく良かったから。ほらほら、もう一度顔下げて」

 睨んだ途端になぜか逆に怒られた。
 ここでカウンターで暴言でも浴びせられればわたしも救われたことだろうに、わたしは言われるままにまた目線を芝生へ戻してしまった。ご丁寧に「はい」と返事まで付けて。
 相手は絶対変態だ。スケッチするふりしてわたしが地面に這いつくばっているところを嘲笑っているんだ。なんて悪趣味な男だろう。男子なんて昔から理解できない人種だとは思っていたが、大学まで来れば男子にも常識が備わってくるだろうと考えていたわたしが愚かだったのだ。
 一度了承してしまった以上、途中で「やっぱりやめた」とは言い出せず、結局わたしは彼が「いいよ」と言うまで同じ格好で固まることとなった。
 冷たい芝生から立ち上がったわたしは、くしゅん、と無防備なくしゃみまでしてしまった。恥ずかしいというより屈辱だこれは。

「サンキュー。ついでにベンチ座ってさっきの物憂げな感じ、もう一回再現してみよっか」
「お断りします」

 こちらの気持ちなど露ほども知らない様子で言う男に、わたしは今度こそ真っ向から拒否を表明した。
 夕暮れ時に孤独を満喫するはずだったのに、とんだ闖入者で台なしだ。孤独になれないのなら、こんな寒い所にも用はない。わたしは地面に転がっていたカバン(ベンチから立ち上がったときに放り出してしまった)を持ち上げるとくるりと背を向けた。

「待って待って、待て!」

 思わぬ強い調子で呼び止められて、わたしは思いがけず立ち止まってしまう。優柔不断なわたしの身体め、ここは相手の声に耳を貸さずにすたすた立ち去るのが正解だ。
 かろうじて残っていた意地で振り返ることだけはしなかった。

「ホント頼むよ。あんたのは絶対絵になるんだって。モデル代欲しいなら、学食で奢るくらいならするし、なあ!」

 こいつにはデリカシーってもんがないんじゃなかろうか。誰がいつモデル代など請求したんだ。

「なんでわたしがあんたみたいな失礼なヤツの頼みごと聞かなきゃなんないのよ! 突然現れてその態度、何さまのつもり!?」

 あくまでも振り返らず、わたしは声を張り上げた。しかし、その勢いに反してわたしの足は前には進まない。
 わたしがいつまでもウジウジと立ち尽くしていると、背後で立ち上がる気配がした。

「……悪かった、ごめん」

 ここで素直に謝ってくるとは思わなかった。背中向けてて良かったと思うくらい、わたしの顔は驚きでいっぱいになっていたはずだ。
 すると今度は、このままわたし一人がツンケンしているのがなんだかとんでもなく格好悪い気がしてくる。ここはわたしも赦す態度を取らなければならないかとしばらく考えた末、実行することにした。
 頭の中で言うべき言葉を呟きながら振り返る。「わたしも怒鳴ってごめん」

「……あれ?」

 わたしの後ろには誰もいなかった。ベンチには白い画用紙が一枚、風に飛ばされることもなく置かれていた。
 裏庭全体を見回すが、人の気配はない。

「……なんなのよ……」

 どうやら失礼な画家気取りは早々に立ち去ってしまったらしい。最後に捨て台詞を残してさっさと逃げるなんて、なんていうか、ずるい。
 わたしはベンチに置かれていた画用紙を手に取り、表を向ける。黒の鉛筆で描かれたラフ画。
 斜め下、とても絶妙な角度で俯いた女の顔が、画用紙いっぱい使って描かれていた。ラフではあったが顔の陰影、光の具合まで綺麗に(それこそ現実よりも)再現されていた。先ほど、わたしが芝生に座りこんでいたときの絵に違いない。顔に見覚えがあり過ぎた。
 右下の空白には、達筆なのか判断に苦しむ走り書きのサインが入っていた。アルファベットのようだが、残念ながらわたしは筆記体が読めない。
 画用紙の左側には、スケッチブックから切り取った跡があった。
 わたしは、その絵を眺めながら考えた。わたしにこれをどうしろと……?
 自分の顔がこんな場所に放置されるのもなんだか嫌で、仕方なくわたしはその画用紙を丸めて手に持った。手にはめていたシュシュが意外なところで役に立つものだ。

「今度顔見たら突き返してやる」

 わたしは誰にともなく宣言した。






 それから一週間経ったが、結局あの画家気取りを見かけることはなかった。総合大学であるため学生の人数がやたら多いことも災いした。
 あれからわたしはセカンドバックを持ち歩くようにして密かにあの絵を入れている。あの日以来、中は一度も見ていなかった。
 芸術に造詣のないわたしでも分かる。彼の画力は大したものだ。でもそれを認めてしまえば、あの日彼を怒鳴りつけたわたしがますます惨めになるような気がして、絵を見ることができなかったのだ。

「ねぇ、最近持ってるそのカバン、何入ってるの?」

 とある講義の終わりにわたしは友達にそう訊ねられ、素直に絵だと答えた。補足して、一週間前の出来事も(大いに端折りながら)説明する。

「デザイン科の子かなぁ? 見てもいい?」

 わたしは一瞬、どうしようかと迷った。ひけらかすものでもない気がするが、見せないのもそれはそれで怪しまれる気がした(何が怪しいのかはわたしもよく分からない)ので、見せておいた方が良いだろうと判断した。
 留めていたシュシュを外すと、紙はすっかり巻き癖が付いていた。

「うわぁ、美人に描いてもらったのねー」

 何気に失礼なことを言うのも、友達ならではのことだ。こういうときに下手に言葉を選ばない子の方が信用ができるというものだ。

「右下にサイン入ってるんだけど……、知ってたりする?」
「え? あ、このサインなら知ってるわよ! ってかあなたもしかして知らないの?」

 友達がこのサインを知っていることに驚いたわたしに、友達も驚いていた。どうせ世間の話には疎いわたしなのだ。

「デザイン科のコウノ先輩のサインよ。プロの美術展にも作品出すような有名人なんだから。これ、タダで描いて貰ったの?」

 ……どうやら(不本意ながら)めちゃくちゃすごい人らしい。しかも先輩。

「初めて知った。だって、いきなりなんの断りもなくわたしのこと描きだすんだもん、そんなすごい人だなんて思わなかった……」
「コウノ先輩は絵画に関しては時と場所を選ばないって言われてるしね。惜しいことしたわねぇ」
「惜しいも何もないわよ。いくらすごい画家だって、礼儀を弁えないんじゃ話にならないわ」

 芸術家は一般人には理解できない思考を持っているというけど、どうやら彼もその部類に入るようだ。
 そんな彼にモデルとして眼を付けられるのは名誉なことかもしれないが、わたしとしては今思い出しても寒気しか覚えない。

「まあいいや。その絵、大事に取っておいたら? ラフとは言えども将来たかーく売れるかもよ」
「今度見かけたら突き返してやるつもりよ」

 あらそうなの? と友達は首を傾げたが、それ以上は言及せず次の講義があるからと話を切り上げて走って行った。こういう淡白な関係は大学らしくていいなぁ、とわたしは思う。高校ではいつも同じメンツでベタベタしていたから、正直、うんざりしていた。
 そう、同じ学校に通っていると言えども、ここでは同じ人に二度と出会えない可能性すらあるのだ。
 この後はもう時間割のないわたしは、コートを着こんで外へ出た。駐輪場へ向かおうとしていた足は、どういうわけかあの中庭へ向かっていた。
 相変わらず人気のない場所に、風だけが芝生と遊んでいる。
 わたしはいつものように隅っこのベンチに腰かけ、空を見上げた。一週間前と同じような、でも微妙に違う空の色を無為に見つめ続ける。空はいい。心を洗ってくれるようだ。この空の下に生まれたことだけでも、わたしはもしかしたら幸せ者なのかもしれない。
 ふぅ、とため息をついて、わたしは視線を芝生へと落とした。今日は影は一つ、わたしのものしかない。安心感と同時に、どこか物足りなさを感じている自分に軽く舌打ちした。
 じっと影を眺めていると、芝生の色が少しずつ変わって行く。空の色に呼応するかのように、地面も色を変えるのだなぁ。その様がとても大切なもののように感じられて、じっと見つめてみる。

「……あぁ〜、いいうなじー」

 突如、背後から聞き覚えのあるようなないような声が聞こえて、反射的に振り返る。こういうときの反射神経が日常生活でも発揮できればいいのにとつくづく思うくらい、我ながらあっぱれな動きだった。
 ベンチの後ろ側に、いつの間にか人が立っていた。ピンクのベストと、細すぎるくらいのプロポーション。手にはスケッチブックと鉛筆。
 前回の去り際と言い今回と言い、この人は本業忍者ないかというくらい足音を消す。

「あー、ほらほら動かない。終わったら飴ちゃんあげるからさ」
「ハタチの女を飴で釣らないでください」

 一週間前の経験もあってか、今日はすらすらと言葉が出てくる。

「コウノ先輩ですね?」

 訊ねると、コウノ先輩は少し驚いたような顔をして、小さく「ばれたか……」と呟いた。ばれるもなにも、自分が有名人だという自覚ぐらいあるだろうに。
 わたしはセカンドバックから一週間前の絵を取り出し、差し出した。

「これ、お忘れでしたので預かっていました。お返しします」

 何か言うかと思ったが、コウノ先輩は素直にそれを受け取った。本当に忘れていたんだろうか、……と思ったら、受け取った絵を開いて確かめ、そこでようやく納得したような顔になった。忘れてたのかこの人。

「あんた、一週間前の人かぁ。なるほど、インスピレーションが降って来るわけだ」
「……お忘れだったんですか?」
「じゃあ、この前の続き、しよっか? 時間もちょうど同じくらいだし」
「……目的を果たしたので、わたしはもう帰ります」
「書きかけのラフと記憶でどうにか再現しようと思ったんだけど、どうも俺、記憶力ないみたいでさー。やっぱりモデルいないと絵は描けねぇわ」
「わたしの話、聞いてますか?」

 全然会話にならない。
 この前「ごめん」と述べたのすら完全に忘れているんじゃなかろうか。これは本人も申告の通り、本格的に記憶力を疑わざるを得ない。
 わたしが呆れ顔で彼の幸せそうな顔を見ていると、

「……だってあんた、俺が話聞いてくれるまで帰ろうとしないだろ?」

 不釣り合いな黒縁メガネ越しに突然まじめな視線を向けられた。こいつ実は腹黒だ、絶対腹黒だ。

「一週間前、折角降りてきたインスピレーション取り逃して、俺もうあれからやる気だだ下がりなんだわ。次のコンクールまであと2週間切ってるのに、まだ構想すらまとまらない。あんた見てからそれ以外の何描いても満足できないし」

 だから、と彼は言う。そんな頼むような言い方は反則だ。
 クールな大人の女性ならば「それがどうしたの」なんてしれっと言ってしまえるのだろうが、生憎、そこまで大人になりきれていない身である。ハタチにもなって情けないが、もしかしたらこの優柔不断は一生続くんじゃなかろうかと嫌な予感が胸をよぎる。
 普段の態度からは想像もつかないくらいの真摯な眼に見つめられ、わたしは蛇に睨まれたカエルの気分だった。なんで頼まれるわたしの方が追い詰められなければならないならないんだこの腹黒変態め。心の中では毒づきつつも、わたしの出す返事はもう決まっていた。

「……今、ここでだけですよ? わたしがモデルになるのは、ここでラフを描き上げるまでです」

 頼まれれば断れない。それがわたしだ。遺憾ながら。
 わたしがOKを出したことに一瞬眼を見開いたコウノ先輩だったが、やがて満面の笑みを浮かべて万歳した。どうでもいいが、驚くくらいなら最初から頼みごとなんてしないでほしい。

「サンキュー! 愛してる! えーっと……」

 まさしく手放しで喜んでいるコウノ先輩の顔が笑顔のまま凍り付いた。
 そういえば、互いに名前を名乗っていない。コウノ先輩の名前だって、友達から聞いたのであって自分からそう自己紹介したわけではなかったのだった。
 別に一度きりのモデルなら名前を知る必要などないだろうに、案外几帳面なのかもしれないコウノ先輩は、口には出さず、眼だけで「名前を教えて」と語っていた。
 わたしは不覚にも、口元に笑顔が浮かぶのを止められなかった。



 たぶんこの瞬間、わたしは幸せなのだ。



2009/11/27 初出