「先輩って、全部青色なんですね」
前を向いて熱心にノートを取っていた先輩は、わたしの方を見て僅かに首を傾げた。
わたしは、先輩のノートを指差した。先輩のお気に入り、ロルバーンのノート。サイズはXL。
黄色の紙の上、几帳面な文字が規則正しく綴られている。このノートのコピー、いくらで売れるんだろう、と思わず考えてしまいそうなくらいだ。
わたしが指差したのは、その文字だった。
3色に色分けして書かれたノート。その3色すべてが、青色なのだ。正確には、プルシアンブルーとスカイブルーとベビーブルー。色分けというよりは濃淡を付けているようだった。
ちなみに、ロルバーンの表紙も水色だったりする。
「青、好きなんですか?」
先輩は、ノートとわたしの顔を見比べて、「うん」と一言。それからまた前を向いてしまった。
講義中なのだから私語をするのがいけないのだが、わたしは先輩のその素気なさにちょっと寂しい気分だった。
講義終了まで、あと15分。わたしも気を取り直して黒板に眼を向けた。
黒板には、先輩のノートとは大違いのカオスな板書。サイズもばらばらな単語たちの間をいくつもの矢印が行き交い、それぞれを関連付けている。あの板書をどうしてあんなに丁寧にまとめられるんだろう。
隣からは時折、カチ、カチと音がする。3色ボールペンの色を切り替えるときの音だ。先輩はノートを取るとき、一つのボールペンしか使わない。その方が、何本もペンを使うより手元が簡潔で済む。
講義を受ける先輩の荷物はいつも簡潔だ。ノートと3色ボールペンが一つずつしか持ち歩かないから、カバンも必要ないのだという。シンプルな人なのだ。
わたしはと言えば、手元は大分散らばっている。お気に入りのピンクのシャープペンシルと、赤と青の色ペン、信号色のマーカー。これだけで6本。ちなみに、わたしの筆箱の中にはまだまだペンが眠っている。文具を集めるのは好きだし、それを使うのも楽しみの一つだ。
では先輩が文具に拘りがないのかと言えばそれは違う。先輩のロルバーンだって拘りだし、3色ボールペンだって自分で3色組み合わせられる最近の流行りものだったりする。
『使っていて、これだ!って思うものがあるんだよ。そうなるともう他のはなかなか使えないね』
前にわたしがロルバーンを珍しがったときに、先輩はそう言った。
新しいもの好きで、デザインが良ければなんでも集めてしまうわたしと比べれば、先輩の文具好きは一途だ。これと思い込んだらひたすら愛する。物に愛情を注げる人は大人だなぁ。
教室の中には、先生が板書する音と、学生がひたすらペンを動かす音だけが響いている。90分の講義の終了15分前ともなれば皆そわそわし出す頃だというのに、今日は板書が多いせいか教室は異様に静かだ。だが、この静寂もあと15分。わたしも板書に集中することにした。
終業のベルが鳴る5分前、教授が締めの言葉を述べると同時に、教室はまるで現実を取り戻すように騒がしくなる。
ノートや筆記具をさっさとカバンにしまって席を立った学生たちが出口に殺到し、のんびり片付けをする者たちは友人たちと先ほどの講義の内容がどうのこうのと話を交わす。わたしと先輩は後者で、ノートを閉じてペンを胸ポケットに挟み込むだけの先輩は、わたしの片付けを待つ格好だ。ペンを拾い集めてペンケースに収納し、ノートを閉じてそれらをカバンにしまう。椅子に引っかけたコートを掴み、「お待たせしました」と先輩に頭を下げた。
ん、とだけ言った先輩は、わたしを先導するように歩き出した。
今は2限の終わり、多くの学生が食堂やショップへ向かう中、わたしたちは人気の少ない逆方向へと歩き出す。
「わたしも身の回りシンプルにしようかなぁ……」
先輩の姿を見ながら、わたしはポツリと漏らした。先輩は歩きながら首だけわたしの方を見る。それから、少し歩調を緩めてわたしの隣に並んでくれた。
先輩は紺色のブレザーと空色のセーターの取り合わせ。胸ポケットには3色ボールペンが一本。手には水色のロルバーン。
「なんで? 女の子は物持ちすぎてるくらいがちょうどいいよ?」
笑いもせず、先輩は真顔で言う。物を持ちすぎていることは否定しないあたりが先輩らしい。
「たくさん持ってても、それを自分で管理できなかったら持ってないのと大して変わらないんですよ。物を使いこなせないっていうか……」
気に入れば買ってしまう。でも転じれば、気に入らなくなったら捨てるということ。ペンだって、インクがなくなるまで使えたら良いのに、大抵まだ使えるうちに捨ててしまうのだ。次々と新しいものを買って、古いものをポイと投げ捨ててしまう。先輩を見ていると、そんな自分が浅はかに思えてならない。
「世の中は大量生産大量消費社会。一つのものを長く使うことは、むしろ不経済的で世の流れに反していると思うけどねぇ」
「そんなことないですよ。今はエコの時代です。『モッタイナイ』です!」
「ところが実のところそうでもないんじゃないかな。メーカーは次々と新しいものを作るし、あの手この手でお客の気を引こうと必死だ。本当に物を大切にしてほしいと思っているなら、新しいものを作らなければいいのに」
そう言って、先輩は胸ポケットからボールペンを引き抜いた。3つの青色が入った3色ボールペン。
「これだって、僕が愛用するようになってから半年くらいしか経ってない。人に愛されるものを作ろうと思えば、そこに至るまでにもたくさんのものを作っていかなきゃいけないんだよ。それに、僕にとっては素晴らしい発明品かもしれないけど、他の誰かにとってもそうだとは限らないからね」
もっともなことを言う。
わたしは先輩の言葉を全肯定するように頷いた。そして、目の前に掲げられた3色ボールペンが、わたしに15分前のことを思い出させる。
「先輩、そういえばさっきのこと」
「さっき?」
「青が好きだっていう話です。なんで青色好きなんですか?」
他人に「どうしてそれが好きなの?」と問われてちゃんと他者に分かる理屈で答えられる人は少ない。問うた先の先輩も「難しいね」と唸っていた。
「今日は、空を描きに行こうか」
天井を向いて考え込んでいた先輩が、唐突に話を切り替えてきた。ちょうど、天窓から光が差し込んでいるところだった。
言い忘れていたが(誰に?)、わたしたちは美術部所属である。今から向かうのは部室で、昼休みは大抵そこにたむろして過ごす。
今は文化祭も終わったばかりで、次の展覧会まではかなり時間もあって自由な時期だ。
空と言われて、わたしも釣られて天井を見上げた。天窓の外には鮮やかなブルー、泳ぐ雲が魚のようだ。
「空。いいですねー。今日はよく晴れてるし、夕暮れなんか綺麗でしょうね」
しかし、空を描くのは難しい。色の三原色と光の三原色が別物であるように、空をキャンバスに完璧に写し取ることは不可能に近い。美しいと思った色が絵の具で表現できなくて泣きたくなったことなど一度や二度のことではなかった。
好きだと思った色は、直後には永久に失われてしまう。それが空という題材なのだ。
納得のいく空の色が探し当てられなかった場合、仕方なしに別な色で代用する。これではないと知りつつも、表現する方法がないからと一番近い色を使う。
「heavenly blue」
先輩が空を見上げてポツリと呟いた。
ヘブンリー・ブルー。天上の青。
「僕は一度、とても美しい、それこそ言葉では言い尽くせないほどの美しい青空を見たんだ。デジカメで写し取ってはみたけど、あの色を完全に再現することはできなかった。どうしてもあの色を再現してみたくてキャンバスの上で試行錯誤したけど、どうしても僕の求める青にはならなかった。それからずっと、僕はあのときの空を"heavenly blue"と呼んでいる」
色はとても奥深い。人というレンズを介せばなおさらで、同じものを見ていても同じ色を見ているとは限らない。ある人にとっては感動的な色でも、またある人にとってはなんの面白みもない色と映るかもしれない。
先輩の"heavenly blue"は、先輩だけの青色なのだ。
「だから先輩は、青色なんですね」
たった一度見た至高の青色に憧れて、いつの間にか青色ばかりを追い求めるようになっていたのだろう。拘り性の先輩らしい。
「青色の学者になれそうだよ」
先輩は少し自嘲気味に、笑った。
「僕はいつかあの色を絵の具に閉じ込めるのが夢なんだ。そしてその絵の具に、"heavenly blue"とラベルを貼る」
わたし想像してみた。
書斎のような、アトリエのような一室。壁際の棚にはこの世のありとあらゆる青色絵の具がチューブに入って並べられている。プルシアンブルー、スカイブルー、ベビーブルー……。
大きく開いた窓からは、この世のものとは思えない美しい青空が広がり、爽やかな風がカーテンを揺らす。
部屋の真ん中、窓に背を向けて立つイーゼル、立てかけられているのは真っ白なキャンバス。
キャンバスの前に立った先輩が、絵の具をこねていた筆をパレットから離し、そっとキャンバスに添える。そして少しだけ覚悟するような間を空けてから、思いっきり筆を右から左へ滑らせた。真っ白なキャンバスに、空と同じ色の線が現れた。
先輩は微笑んで、その色の名前を口に浮かべるのだ。
2009/12/12 初出