アカリちゃんとコウノくん◆学生編

告白は学食で

 昼休み、絵具の匂いの染み付いた美術室はのどかな様相だった。
 開け放たれた窓からは梅雨の合間の太陽が覗き、久しぶりの爽やかな風が吹き込んでカーテンを揺らしていた。
 きっとここに人物を一人か二人配すれば良い絵の一つでもできるのだろうなぁ。昼特有の眠気の中、ツムギはぼんやりと考えていた。
 いつも、この時間帯の部室には美術部員がたむろしているものなのだが、今日に限ってツムギは一人きりだった。中間レポートの多い時期だから、皆忙しいのだろうか。部活についても、次の締め切りである夏の学祭までもあと一カ月はある。
 学生というのは暇そうで忙しく、忙しそうで暇な生き物なのだ。
 初夏の優しい陽光の中、ツムギはとうとう机に突っ伏した。長く使いこまれささくれ立った木の机からは、もう既に慣れ切った油絵具の匂いがする。
 このままここで、お昼寝に突入するのもありかもしれない。そう思ってツムギが目を閉じようとすると、廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。美術室は普段はあまり使われない専門教室棟にあるので、誰か来るとしたら美術部員か美術担当の教員だろうか。案の定、その足音は美術室の前で立ち止まり、なんの躊躇いもなく扉を引き開けた。
 閉じようとしていた目に、見慣れた青色の上着が映り、ツムギは慌てて顔を上げる。

「やっぱりここにいたんだ。もしかして、今から寝るところだった?」
「あ、いいえ」

 反射的にそう応え、ついでに首を横に振った。相手は美術部の先輩だ。堂々と今から寝ます宣言をするわけにはいかない。
 先輩はツムギの方へ歩み寄ろうとして、ふと立ち止まる。そして、しばらく目を小さく左右に動かしてから、胸ポケットへ手をやる。

「良い絵だし、一枚撮っておこうか。あ、ツムギも動かないでね」

 胸ポケットに吸い込まれた手が、小型なデジカメを引っ張り出した。さすが先輩、デジカメまで青系統の色で統一している。
 ここの美術部員は大抵デジカメかカメラを持ち歩いている。日常の中にどんな「絵」が潜んでいるか、それを探し当てて写真に閉じ込めるのが好きなのだ。
 先ほどツムギが思ったことを、先輩も感じたらしい。それがなんとなく、ツムギには嬉しかった。
 先輩の方を見たままで止まったツムギは自然とカメラ目線になる。間もなくフラッシュとシャッターの音。それから先輩が写真の出来を確認するまで、ツムギは動かなかった。
 「よし」と先輩が満足したであろう声を出して初めて、ツムギは肩の力を抜いた。

「そうそう、ツムギ、今から食堂に行かない? 大食堂の方」

 デジカメを所定の場所に戻した先輩が、突然こう言った。しかもなぜか笑いを堪えながら。

「でも、昼休みの大食堂は混んでますよ。できれば近づきたくないです……」

 ツムギが美術室で暇を潰すのは、昼の混雑した時間に食堂へ行きたくないからでもある。昼食は弁当を持参するか、空いた時間を見計らってショップでおにぎりかパンを買う。

「大丈夫、席取ってあるし、昼を食べるのが目的じゃないから」

 じゃあ何をしに行くのだ。ツムギはそう訊きたかったが、今の先輩は訊いても内緒にしたがる雰囲気だ。ツムギが昼の食堂を避けているのは知っているはずだから、それでも誘うならまずその目的を明らかにするだろう。

「それに、みんなも今食堂にいるんだ。面白いものが見られるよ」
「みんなも?」

 ますますもって謎が深まった。美術部員は皆仲が良いが、つるんで食堂でご飯を食べるような仲でもない。なんとなく部室へ集まったメンツが、なんとなくその場で一緒に暇を潰すような感じ。
 しかし「みんなも」と強調するのだから、今回は余程特殊な事態なのだろう。それに、先輩はわざわざツムギを呼びに来たのだから、ここで断る選択肢はなさそうだった。

「それじゃあ、わたしも行きます。……あの、一応訊いておきますけど、面白いものってなんですか?」

 そうと決まれば先輩を待たせるわけにはいかない。必需品だけを入れた小さなカバンを手に持って、ツムギは先輩に続いて外へ出た。
 先輩は一刻も早く食堂へ着きたいだろうに、それでもツムギにペースを合わせてあるいてくれる。それに感謝しながら、ツムギは先輩の横に並んで歩いた。そして訊ねる。

「見れば分かるよ。もっと言うなら、コウノがやらかしてる」
「コウノ先輩が、ですか?」

 コウノ先輩と言えば、我らが美術部の一等星。そのずば抜けたセンスで、名のある画家の展覧会にもお呼ばれするような先輩だ。そのセンス故か、日常生活ではやや常識を外れがちではあるが、美術部員にとってはもはやそれは「当たり前」の世界だった。つまり、今はその「当たり前」を超える事態になっているということだろうか。

「僕も正直びっくりしててさ。コウノも僕らと同じ人間だったんだなぁ、っていうか」
「そりゃコウノ先輩は絵のことになると先の読めない行動をしますけど、でもそれ以外では結構普通だと思いますよ」
「あはは。いや、別にコウノのこと悪く言ってるわけじゃないんだ。……でも良かった、コウノもちゃんと後輩に受け入れられてて」
「美術部員の中でコウノ先輩のこと嫌いな人なんていませんよ」

 コウノ先輩は自分が絵に打ち込んでいるとき、周りが見えなくなることを自覚しているし、絵のこと以外に考える余裕ができたときは、周囲にそれとなく気を遣っているのことだってみんな分かっている。その気遣いも、彼特有のユーモアのお陰で重さを感じないのだから、むしろ人間としてはバランス良くできている方だとも思う。

「今の美術部はね。でも、コウノが入ったばかりの頃はいろいろ大変だったよ。同回の僕らも、あいつをただの変人としてしか見なしていなかった」
「そりゃあ、最初のうちは戸惑いますよ。でも、コウノ先輩がどれだけ本気で絵に打ち込んでいるか分かれば、みんな分かるようになります。それに、コウノ先輩のお陰でうちの美術部はレベル上がってるんですから」
「ツムギは優しいね」

 その必死な擁護に、先輩は苦笑し、

「もしかして、コウノのこと好きなの?」

 苦笑を悪戯っぽい笑みに切り替えてきた。探られるように見つめられ、思わず歩みが止まってしまった。
 動揺しているのが分かる。コウノ先輩を好きなのかと言われたからじゃない。でもこの状況では間違いなく勘違いされる。
 こういうとき、身体に染み付いた癖というのはありがたい。女の子同士のありふれた恋の話の中で培われた経験が、頭で考えるより早く舌の上に載っていた。

「好きですよ。でも、恋愛的な意味じゃないですから!」

 だってそうじゃないですか。コウノ先輩嫌いだったら今頃美術部にいられませんよ。それに、なんだかんだで美術部のムードメーカーだしマスコットだし、一度近づいちゃうと嫌いになる方が難しい人だと思います!

 そこまで早口で捲し立てて、ようやく口は動きを止めた。これだけ言い募ったら逆に怪しまれるかも、と思ったが時既に遅し。ああ、わたしの馬鹿っ!
 これは本格的に勘違いをされたのではないかと、恐るおそる先輩の様子を窺うのと、先輩が声を上げて笑うのはほぼ同時だった。

「いやぁ、愛されてるねぇ、コウノは。むしろそこまで愛してくれてありがとうって僕が言いたくなるよ。あ、勿論、恋愛的な意味じゃなくてね」

 ……もしかして、からかわれたんだろうか。それを相手に訊ねる勇気はツムギにはなかった。
 急がなきゃ餌が逃げちゃうね、と先輩は何事もなく歩みを再開したので、ツムギも慌てて歩き出す。

「でもここで、恋愛的な意味で好きですとか告白されたら、ツムギのこと食堂に連れていくのやめようかなって思った」
「それってどういう……まさかっ」
「はい、それ以上は放送禁止」

 その口止めはツムギの予想を肯定しているのだろう。これは確かにびっくりだ。確かに、コウノ先輩もツムギたちと同じ人間だったと認めたくなる。まさか、あのコウノ先輩が。
 そう考えるとツムギにも俄然やる気が出てくる。不謹慎な話ではあるが、普段はコウノ先輩に対して寛容な美術部員がここまで過剰反応するのも理解できるというものだ。

 食堂は混雑していたが、ところどころ空席も見られるくらいにはなっていた。配膳所は相変わらずの行列なので、お昼にありつくにはもう少し待たなければならないだろう。
 先輩は迷うことなく奥の窓際の席へ向かっていく。そこに8席ほど確保して見慣れた美術部のメンツが陣取っていた。

「おかえり、ミナト」
「ツムギもいらっしゃい」
「ツムギちゃん、ミナト先輩に何もされなかった?」

 皆の出迎えの言葉に応じながら、ツムギとミナト先輩は席に着いた。空席は、二人のために用意された隣り合った二つだけだった。

「イトセ、それはさっきから否定してるだろう」
「えー、ミナト先輩ほんとに何もしなかったんですかー? 満場一致でツムギちゃんのお迎え役に抜擢されたんですから、もっと空気読んで下さいよー」

 それからしばらくはミナト先輩へのブーイング大会だった。標的はミナト先輩だったが、ツムギも無関係でいられるわけがなく、皆、遠まわしに過激な発言を投げてくる。

「美術室から食堂まで何メートルあると思ってるの?」
「しかも人通りの少ない道ですよー?」
「何かあると期待した俺は人間として間違っているか?」
「いや、間違ってない!」
「ツムギ、ここは女の方からバシっと決めてやる場面よ!」

 ……なんだろう、この居辛いムード。

「えっと、あの、コウノ先輩はどうなってるんですか?」

 わざわざ挙手までして訴えると、皆一様に彼のことを思い出したようだった。

「あっちの席、ほら、左から二つ目のテーブル」

 ツムギと同回生のイトセが指差す方向を見ると、そこには確かに見慣れたピンクのベストを着た後姿があった。そしてその正面に座る女性。

「あの女の子、こないだコウノ先輩がコンクールに出した作品のモデルやってた子だね。確か、社会学部の2回生」
「付き合ってるんですか? モデルやってくれた子にご飯奢るのは割とあると思うんですけど」
「付き合う一歩手前って感じかしら。珍しくコウノが積極的でさ、彼女の方も最初は断り切れずに一緒にご飯食べてたって感じだったけど、それが今日で少なくとも5回目だから」
「5回目って……、つまり5回もこうやってみんな集まってるってことですか?」
「いや、俺らが集まり始めたのは確か前々回くらいからじゃないか? コウノも有名人だから、目撃情報はどこからでも入って来るんだよ。今日はどこそこで逢引きしてたー、とか」

 有名人も大変だ。こうやってデート現場を盗み見ている立場で言えたセリフではないが。

「でも、上手くいくといいですね、あの二人」
「コウノ先輩が相手ですから、女の子の方も大変かもしれないですけど」
「いやぁ、コウノもあれで結構尽くすタイプだから、案外苦労するのはコウノの方かもよー」
「成功するにしても失敗するにしても、コウノ先輩が真剣に恋を考えたなら大進展ですって」

 まるで我が子を送り出す親の如く、コウノとその彼女(予定)の話で盛り上がる美術部員たち。
 さっきから観察していて気付いたが、女の子はコウノ先輩といてもあまり笑わない。それどころか時々、困ったような、呆れたような顔をする。だからといってコウノ先輩が嫌いなのかと思えば、女の子の方から積極的に話をしていたりする。そしてそういうとき、コウノ先輩は後姿からも想像がつくほど、とても楽しそうなのだ。

「あ、笑った」

 そして、コウノ先輩がそうやって楽しそうにしているとき、彼女はふっと表情を緩める。付き合う一歩手前ってああいう感じなのかな。

 ところで、昼休みも間もなく終わろうかという時間、食堂は段々と空いてきていた。昼休みの喧騒が遠ざかり、食堂の隅で騒ぐ美術部員たちはとても目立つ。





「随分盛り上がってますね、あの席」

 コウノと一緒に食事をしていた女が、コウノの斜め後ろ側、窓際の一番奥の席を見る。
 コウノも釣られて振り向くと、「あれ?」と声を上げ、そしてあろうことか手を振りだした。「おーい」という呼び声も忘れていない。
 それに対し、隅の席の一団は慌てたような様子を見せたが、まるで観念したかのように数人が手を振り返してきた。知り合いだろうか。それにしては様子がおかしいような……。
 女が疑問に思いながらその様子を見ていると、コウノはくるりと女に向き直り、笑顔でこうのたまった。

「美術部のメンツ。あれだね。俺らずっと観察されてたみたい?」

 ただでさえ表情の少なかった女の顔がそのまま凍りつく。それからの対応は実に素早かった。荷物をまとめ、既に食べ終わっていた食事のトレイを持ち、

「それじゃあ、わたしこの後講義があるので」

と、言いってさっさと立ち上がってしまった。

「あれ、さっきこの後は空いてるって言ってたじゃん」
「急用を思い出しました。急がなきゃいけないので、今日はもう失礼します」

 言うや否や、そのまま背を向け小走りに返却口へと走って行く。まるで逃げていくように。
 コウノは追いかけるべきか悩んだが、ああなってしまった彼女はほとぼとりが冷めるまでコウノの言葉を聞こうとしない。真面目で臆病で、そのくせ人一倍強がりだから、不測の事態を上手く受け流すことができないのは、彼女の長所だろうか短所だろうか。
 食堂から走り去って行く自分の彼女(予定)を見送ってから、コウノは「さてと」と席を立った。知った顔の揃う席の方へ手を振りながら、にこやかに宣言する。

「おまえらぁ、全員表ぇ出ろー!」



2010/05/26 初出