聖女と悪魔 〜チェレスティーナ〜

 薄靄のかかる秋の早朝。夜が明けきらず、人々も今しばらくは静かな頃、その一団が街外れの通りを粛々と歩いていた。皆一様に清潔だが質素なローブを纏い、首からは「光の紋章」を象った首飾りを下げている。
 この土地で大多数の人々に信仰される神の国思想の宗教。彼らはその中に属する「サクラ」と呼ばれる、最下位の聖職者たちだった。
 その出自が多くが孤児で、赤ん坊の頃に修道院や慈善院に託された子らだ。
 「サクラ」の仕事は、主に死体の世話。墓を持つのは王侯貴族や一定以上の富を持つ者に限られた世の中で、その他大勢の人々は死者の遺体を、街外れの川に流したりその近辺に置き去りにした。それが、その街の人々の常識だった。
 やがて「サクラ川」と呼ばれるようになったその川へ捨てられた遺体を世話し、教会の集団墓地へ埋葬するのが「サクラ」の役割だ。
 不浄な仕事で、疫病などの危険に晒され続けるために、「サクラ」の多くは次の位階へ上がる前に死んでしまうか、任を解かれる。それでも、他に行き場のない彼らは課せられた役目を果たすことに前向きだ。前向きにならざるを得ない。

 ところで、聖なる教会の一端でありながら穢れに触れる「サクラ」を、教会組織は、同じ組織機構の中に組み込みながらもやや突き離している。つまり、「サクラ」は半ば独立し、一人立ちした組織なのだ。
 「サクラ」たちを取り仕切るのは、「サクラの巫女」と呼ばれる一人の子供。「サクラ」の中では、巫女は「生に執着する死者の念を鎮める調停者」なのだと言われている。生と死を仲介し、そのバランスを保つ存在として、「サクラ」たちは「サクラの巫女」を敬い讃える。それこそ、神と同等かそれ以上に。
 そして、巫女の風聞の中には嘘か真か、こんなものがある。
「巫女は悪魔と契約することで調停者としての資格を得る。命と引き換えの契約であるがために、巫女は短命なのだ」と。
 実際に、「サクラの巫女」に選ばれた子供たちは総じて、就任から2,3年程度、長くても成人を迎えずに死んでしまう。しかしそれは悪魔との契約というよりも、10歳前後の幼い子供たちが疫病やその過酷な労働による精神の疲弊に耐え切れないからだと、表向きには考えられていた。

 そんな中、やはり就任から3年目を迎える前に倒れた巫女の跡を継ぎ、新たな「サクラの巫女」が誕生した。齢7歳。歴代の巫女の中でも破格に若い。
 しかし、彼女を選出した「サクラ」の年長者たちは皆口々に言う。
「彼女は神に使わされた、生まれながらの『巫女』だ。神に感謝を。そして、新たな巫女に忠誠を」
 当初、彼らの言葉を心から信じる者たちはさほど多くなかった。
 もとが孤児や貧しい身分の者たちの集まりである「サクラ」は、自ら熱心な信仰のために入信した者などほとんどいない。聖職者でありながら神を信じない者だって中には当然いるだろう。
 だが、彼らは役目の中で新たな巫女に出会い、触れ合う中で、その考えを次々と翻していった。そして、はじめに年長者たちが唱えた言葉を口にするのだ。
 そんな彼らの賛美の中で、巫女は2年を生き、3年を平然と乗り越えた。
 そして今、彼女は14歳を迎えた。
 「サクラの巫女」に就任して7年。その頃には「サクラ」のすべてが彼女の支持者であり、彼女の信奉者となっていた。

 「サクラの巫女」チェレスティーナは、集団の先頭を静々と、けれど泰然と進んでいた。
 明るい夜空のような藍色の髪と、星を宿したかのように煌めく黒瞳が、見るものにはっと息をのませる。彼女の持つ神秘的なカリスマ性がそうさせることもあれば、妙齢に差しかかり開花しはじめたその美しさが人を惹き付けることもあった。
 しかし今、その表情には緊張の色が差していた。
 チェレスティーナを先頭とした集団はやがて、教会の所有する集団墓地の一つへ辿り着く。門前で待ち構えていた「サクラ」たちが、それを出迎えた。

「御足労いただきありがとうございます」
「いいえ。それより状況を。急ぎましょう」

 透き通った声がその出迎えに答える。少女らしく高い声だが、大人に劣らぬ落ち着きも兼ね備えた不思議な響きだ。

「はい。こちらへ」

 一行は集団墓地の中を進んで行く。
 木々に囲まれた一本道を早足に進み、その先の墓地へ。墓地はさらに一重の高い壁と堅牢な鉄柵の扉で仕切られていたが、扉は今開け放たれていた。扉の前ではさらに数人の「サクラ」たちが、チェレスティーナを見てかすかにざわめいた。

「皆、御苦労さまです。いつもありがとう」

 一団は扉の前で足を止め、チェレスティーナが彼ら一人ひとりを見回して微笑んだ。だが、その笑顔も束の間、緊張した面持ちで墓所の中を見遣る。
 墓所内の広い敷地には、身元の分からない何人もの人々を埋葬した墓があり、その一つひとつに祭壇を供えている。
 そして今、祭壇に供えられた蝋燭の火が、ことごとく灯っていた。
 通常、蝋燭は常には灯さず、墓参りの者が訪れたときや特定の日にのみ灯される。そして、このような夜明け前に火が灯ることはない。

「ビフロンスの仕業で間違いないようですね……。お墓に異常はありますか?」
「今のところはなにも。不気味なくらい大人しいもんです」
「墓所内は結界が厳しいですし、まして今は夜明け前。彼も自由に動けないのでしょう。問題は、なぜそんな危険を冒したのか……。それが分からなければ迂闊に手を出せません。ですが今はとにかく、予防線を張って、彼を囲い込みましょう。準備を」

 よく通る声で発されたチェレスティーナの号令に、「サクラ」たちは一斉に準備に取りかかる。ビフロンスという悪魔を隔離し、退治するのだ。
 ビフロンスはここのところ巷を騒がせている墓荒らしだった。だが、その存在は世間一般には知られていない。ビフロンスは死者にのみ影響を与える悪魔であり、死者は「サクラ」によって管理されるため、早い段階で「サクラ」がその悪魔の存在を突きとめたからだ。しかし、そこからは「サクラ」と悪魔のいたちごっこが続いている。なんせ、彼らは実態を持たないのだ。追い詰めるのも容易いことではない。
 悪魔の中でも、ビフロンスは死者の多い場所を好む。よって墓地は、彼の悪魔の格好の標的だった。
 悪魔は墓前の蝋燭に火を灯して自らの来訪を告げ、地中から死者を呼び出してどこかへと連れ去る。死体そのものを狙った墓荒らしだ。
 遺体がどこへ、なんの目的で持ち去られるのかは依然不明だが、遺体を利用してすることなどロクなことではないだろう。それに、悪魔が人を玩ぶこと自体、見過ごすことはできない。

「これ以上、あの悪魔の好き勝手を許すわけにはいきません。皆、がんばりましょう」

 「サクラ」たちは墓地の周囲に聖水を振り撒いてその場を隔離し、聖別した白い粉で地面に陣を描く。チェレスティーナを中心に、祈りの文句を唱和する声が墓地にさざ波のように静かに響いていた。
 陣が完成し、唱和によって紡がれた見えない祈りの効果が場全体を満たすと、灯っていた蝋燭の一本が不自然に揺らぎ出した。次いで炎の周囲が陽炎のように揺らぎ、空間の裏側から染み出すようにその姿が顕現する。
 蝋燭の灯された、大人の鳩尾ほどの高さの祭壇の上。悪魔は悠然と座した姿でそこに顕れた。
 15,6歳くらいだろうか。悪魔は、チェレスティーナとほぼ変わらない、子供らしさに大人っぽさが混じり始めた頃合いの少年の姿をしていた。
 その姿に、チェレスティーナの瞳が驚きに揺らぐ。

「っ……、エル……!」

 溜め息のように漏れたチェレスティーナの声に、人の姿をした悪魔は、まるで悪戯に成功した子供のように笑った。

「こんばんは。いや、もうおはよう、かな。久しぶりだね、ティナ」

 久々に再会する友人のように、自然な笑みを浮かべて小首を傾げる。そんな彼の仕種に、束の間、込み上げるものを感じながらも、チェレスティーナはすぐさま思考を切り替えた。
 これは悪魔の策略だ――。

「エルネストの騙りをするのはやめなさい、悪魔。わたしは騙されません」

 エルネストは、チェレスティーナの孤児院時代の友人だった。「サクラ」へ引き取られる時期も同じだったが、「サクラ」は原則、男女別々の修道院へ入ることが決まりであったため、孤児院を出てからは会ったことがなかった。どこの修道院へ行ったのかすら知らなかった。

「昔の友達を悪魔呼ばわりするの? 酷いなぁ、ティナ。いつからそんな風になっちゃったの?」

 心を強く持て、とチェレスティーナは自分に命じた。悪魔は人の心を試し、隙間さえあれば忍び込んで来る。
 恐らくビフロンスは、エルネストの死体に取り憑いてチェレスティーナを陥れようとしているのだろう。エルネストも「サクラ」だった。考えたくはないが、もう死んでいたってなんの不自然もない。それに、「サクラ」へ入り、明日をも知れぬ生の中ですべてを賭して生きてきたチェレスティーナにとって、過去の思い出は、失くしたくないほぼ唯一のものだった。それを知って、悪魔は付け込んできたのだ。
 そう。悪魔はいつでも人の心の弱みを見つけるのが上手い。

「わたしには分かります。あなたは悪魔だ。わたしからその本質を隠すことはできないわ」

 その言葉を待ってましたというように、悪魔は見下すような嘲笑を浮かべ、瞬時に切り返してきた。

「それは、君も悪魔だから?」

 「巫女は悪魔と契約することで調停者としての資格を得る」
 その噂は「サクラ」内で知らぬものはいないほどに有名なものだ。チェレスティーナには、後ろに控える「サクラ」たちが息を呑む気配が分かるような気がした。
 馬鹿ばかしいと切って捨てるべきだろうか。だが、そうすることは逆に悪魔に隙を作ってやるようなものだとも思えた。

「君は今、『サクラの巫女』なんだってね。生きることに執着する死者の霊を、生から切り離す調停者。でもそうじゃない。巫女がやっているのは、死者の魂を悪魔へと引き渡すことだろう? 違うかい?」
「なにを馬鹿なことを……」
「そして君自身もその恩恵にあやかっている。……僕には分かるよ。だって、僕が悪魔だから。同じ悪魔のことだ。よく分かるさ」

 そこまで言い切り、挑発するような目をチェレスティーナに向ける。
 チェレスティーナはちらりと後ろに控える「サクラ」たちを意識した。これで、あの噂にはさらに背びれ尾ひれが付いて広まることだろう、とどこか他人事のように思う。
 自分は試されているのだ。悪魔に。彼らに。そしてなにより、もっとも愛する天上のあの方に。

(神よ……)

 チェレスティーナは胸の裡で、自分の仕えるべき唯一の名を呼んだ。
 ――わたしをお守りください。

「……確かに、わたしは悪魔なのかもしれません。わたしたちは死者をあるべき場所へと送り届けることを生き様とします。その過程は、かつて生に属してものをそこから無情に切り離し、死の国へ強引に連れて行くようなものなのかもしれません。そしてそのことで、あなた方悪魔が恩恵を受けることもあるのでしょう。それに加担する者の長であるわたしは、人々をそのように差し向ける悪魔であると言われても仕方ない……」

 眼差しに強い光を宿し、チェレスティーナは臆することなく悪魔を見据える。

「ですが、わたしはそうやって葬る死者たちが、せめて安らかにあれるようにと祈り続けています。あなたのように、惨たらしく死体を掘り返し、安らかな眠りを妨げるものを、だからわたしは許せません。あなたたちの本性が人を脅かすことにあるのなら、わたしの性は人の世を守ることです。だから、わたしはあなたたち悪魔とは違います」

 ほんの一瞬、悪魔が怯んだように表情を変えた。それがどんな感情を表したものなのかは分からない。けれど痛そうな、悲しそうな、悔しそうな……、そんな感情をすべてない交ぜしたような、そんな表情だったのかもしれない。
 だが、チェレスティーナがその表情の変化を不思議に思うよりも早く、悪魔はもとの見下すような笑みを取り戻していた。
 そして、チェレスティーナの言葉など取るに足らないというように、話を変える。

「まあ、どちらでもいいよ。もうすぐ夜明けだ。僕の目的も達成される。……ところで悪魔というのは古くから人の迷信の中に存在しているけれど、一生の中でその姿を見られる者は少ない。だから悪魔はとても曖昧な存在で、その存在を確固たるものにすることに強く焦がれている。そうするためにはどうするのが手っ取り早いんだろうね?」

 チェレスティーナはしばし思案する。
 確かに、悪魔は人から見れば実態を持たない曖昧な存在で、信じる者もいれば信じない者もいる。けれど、おとぎ話や悪魔の仕業と例えられる出来事のお陰で、信じるための土壌は誰にでも備わっている。彼らがその存在を確固にするためには、人々の前で悪魔的な所業をするのが一番確実なのだろうが……。
 そこまで考えて、チェレスティーナははっとした。

「まさか。……あなたは、わたしにあなたは悪魔であると認めさせようとしたのですか」
「御明察。『サクラ』と言ったって所詮はただの人の寄せ集め。悪魔は概念的な、例え話のようなものだと思っている輩も少なくない。でも、君自身が目の前にいる僕を悪魔だと断じれば、そういったお馬鹿さんたちも信じざるを得ないんじゃないかと思ってね。……あとは……」

 言葉を止めて、悪魔は空を仰ぎ見た。釣られてチェレスティーナも空を見上げる。
 夜明け前の青い薄闇に覆われていた空は、気が付けば東からの強い光に白々と明けて行くところだった。
 悪魔は夜動くものだ。太陽の光を苦手とする悪魔も少なくはないとは、多くの書物が語っている。

「ただ、君に悪魔だと認めてもらうだけじゃあ、僕は他の多くの悪魔に紛れて埋もれてしまうだけだ。だから、人の記憶に残るよう、より驚異的で恐ろしい存在だと思い知らせてあげよう。ほら、もうすぐ御来光だ」

 悪魔が片腕を空へ向かってすっと伸ばした。東から走る光の束が墓地の中を貫き、朝の清々しい光でその場を満たした。
 チェレスティーナは悪魔へと視線を戻した。
 朝陽の中で、悪魔もまた、さも嬉しそうにチェレスティーナを見ていた。
 そして高らかに宣言する。

「僕は太陽の光のもとでも活動できる。人の身体もある。僕はこの身体を使って、君たちを恐怖させてやろう。昼日中だろうが、人混みの中だろうが関係ない。僕はいつでもどこでも、君たち人間を陥れることができる」

 チェレスティーナ、と彼は愛称ではない彼女の名を呼んだ。

「僕を追い詰めてみるがいい。……光に愛されたが故に闇を身に飼った……君ならできるはずだろう?」

 その言葉を最後に、悪魔はまるで霧散するようにその場からかき消えた。
 今や夜は完全に明け、墓地は「サクラ」と、彼らが施した陣の跡が残されるのみだった。
 チェレスティーナは振り返る。背後には緊張した、或いはなにか信じられないものを見たかのように茫然とした面持ちの「サクラ」たちが整列していた。まるで、チェレスティーナが率いる軍隊のように。
 チェレスティーナはすぐさま自分のすべきことを頭の奥から引っ張り出し、努めて通る声で指示を出した。

「お墓に被害がないか手分けして調べて下さい。それから……」

 振り返りざまに見た陣の跡。白い粉は時間と共に地面と同化して消えてしまうから跡しか残らないのだが、それでも描いた跡はしばらくくっきりと残る。だが、その陣の一端が不自然に掠れ、破たんしているのを、チェレスティーナは発見した。
 傍らに控えた、「サクラ」の中でも年かさの男に目くばせすると、彼は心得たように距離を詰めてきた。内緒話ができる距離だ。

「本部のレゾルチスタにも連絡を……。あの悪魔を、徹底的に追い詰めます」

 そう言う自分の声が、決意を秘めると同時にあらゆる感情を排斥した冷たいもののように思えて、自分自身にぞっとした。
 「サクラの巫女」としての振る舞いを身に付けるうちに、そんな芸当もできるようになってしまったのか……。
 男はそっと頷くと、さり気ない所作でその場を離れていった。
 各所で各々の仕事をこなす「サクラ」たちをぼんやりと眺めながら、チェレスティーナは先ほどの悪魔との邂逅へと時間を巻き戻していた。
 悪魔ビフロンスが取り憑いたエルネストという少年。彼とチェレスティーナが最後に会ったのは、チェレスティーナが「サクラの巫女」に選ばれる一年前のことだから、もう8年も昔のことになる。それでも、チェレスティーナには、成長したあの少年がエルネストだとすぐに分かった。それだけ、チェレスティーナにとってのエルネストは大きな存在だったから。
 とても優しくて少し弱気で、けれど誰よりも頭の良い少年だった。物語の好きなチェレスティーナのために、彼は孤児院の小さな図書室の絵本を片っ端から読んで、チェレスティーナに話して聞かせてくれたものだ。そうやって一緒に過ごす時間の多い二人のことをからかう子たちもいたが、からかわれる度に、心の奥ではそれでもいいかもと幼心に思っていたのを思い出す。
 けれど、そんな思い出もろとも、悪魔は彼を奪ってしまった。
 それでも、「久しぶりだね、ティナ」と呼びかけられたとき、依然と変わらない優しい呼びかけと微笑みに、心のどこかでは期待を禁じえなかったのも事実だった。
 だが、エルネストの姿をしていようとも、あれは悪魔だ。
 恐らく悪魔はチェレスティーナを試すためにわざとエルネストを利用したに違いない。そんなことのために彼を死から引きずり戻すなど赦せない。

(エル。あなたのことは、わたしが助けるから――!)

 昔、彼が読み聞かせてくれた物語の主人公のように、大切な人を助けるのだ。それだけの力が、今のチェレスティーナにはある。
 例え、この結末が物語のような「めでたし、めでたし」ではなくとも――。



2011/06/03 初出