キツネの彼

 わたしが、彼から「僕はキツネだ」という告白を受けたのは、プロポーズのときだった。
 実際問題、彼の姿はどう見ても人間だし、かといってその言葉が比喩だというわけでもない。
 彼は、キツネから人間になったのだ。

 小さなこたつに互いに向かい合って座り、二人して鍋焼きうどんを啜る。冬と言えばなにをおいても鍋だ。あとはこたつとみかんと、暇つぶしに適当な本があれば言うことない。
 彼のカミングアウトとプロポーズを、わたしはまとめて受け入れた。それからほどなく小さなアパートで二人暮らしを始め、この冬が明ければ結婚する。
 鍋の立てる湯気の向こうに見える彼の顔は、キツネというよりはタヌキのように円形の目立つ作りで、その下の体型も、絵本のタヌキのようにぽっちゃりしていて可愛らしい。
 野生動物にあるまじき体脂肪率を指摘すると、「幸せ太り」だと責任転嫁してきた。だけどあなた、わたしと出逢った頃から丸っこかったよ。

 人が動物になれる技術が開発され実用化が始まると、今度は動物を人に変える技術も発明されて話題になった。二十年ほど前のことだ。
 話題というのは、良いほうもあったが、悪いほうがまだ勝っていた。人になった動物が人として生きていくことは難しい。動物愛護団体を始め、この装置の実用化に反対する声は、連日のようにテレビから、街頭から、あるいは身近な友達から、ひっきりなしに聞こえてきた。
 わたしはそのとき小学生で、確かディベートの授業でこのニュースを扱ったと思う。けれど、わたしはそれに賛成だったのか反対だったのかよく覚えていない。おとぎ話ではよくある話だから大丈夫なんじゃないかとか、そんなふうに考えていたような気もする。あまり深く考えていなかったのだから、さしたる興味もなかったのだろう。
 そして今日、反対を押し切ってくだんの技術は実用化され、社会的な運用も始まっている。いくつもの法律や制度を新たに設け、さまざまな機関、多くの人々を動員して受け入れ体制を整備した。
 「新しい隣人」をつくるこの制度へと、課題は次から次へと積み上がっていく。それでも、わたしたちは彼らを受け入れると決めたのだ。

 彼はちゅるちゅると器用に麺を啜って口に納めた。人間以外の動物は総じて猫舌だと言うが、存外そうでもないのか、彼が人になる過程で克服したのか。
 鍋の中身もあと僅かだ。わたしは思い切って訊ねてみた。
「ねえ、どうして人になろうと思ったの?」
 見つめると、彼は口いっぱいの麺を咀嚼しながら、きょとんとして表情でわたしを見つめ返した。そのまましばらく口をもぐもぐと動かし続けて、ようやく嚥下する。
「……面白そうだったから?」
「質問に質問で返すの禁止」
 いまいち気の引き締まらない顔でいる彼に、わたしは本気だよと目で訴える。つられて彼も表情を改めるが、タヌキ顔の垂れ目はこういうとき、どう頑張っても緊張感に欠けるのが難点だ。
「動物が人になるために入る専門の教育研究機関ってとっても厳しいところなんでしょう? 一般人にまで情報があまり届かないから、詳しいことはわからないけど」
「そりゃあ、本来キツネとしての生をまっとうするべきところ、むりくり軌道修正して人間になるんだから、なんっていうか……死ぬほど過酷だよ」
 そのときのことを思い出したのか、彼の眉間に皺が寄った。
「そう、死んで生まれ変わるようなもんだ。持っているものをすべて投げ捨てて、痛みに耐えて、それでも人になりたいやつだけが最後まで残る。あそこはそういう所だから……」
 話しながら、彼の目が赤く充血していく。それを見て、わたしは慌てて口を挟んだ。思い出さなくてもいい。
「わかった。そのときのことはもういい。ごめん」
 配慮の足りない質問をしてしまったことに自己嫌悪を感じながら頭を下げた。謝るためというより、思わず緩んできた涙腺を相手から隠すために。わたしは昔から、他人の涙に弱い。すぐに貰い泣きしてしまう。
 視界には、輪郭がややぼやけた卓上の光景が映っていた。温かい食事を囲む食器たちを見るともなしに眺めながら、彼は本当に人になって幸せなのかな、などと考えてしまう。キツネに戻りたいと思っているんじゃないだろうか。
「――さん」
 彼が優しく呼ぶ声がする。
「僕は人になれて、いまとっても幸せだよ」
 心の中を読んだのだろうか、わたしを慰めるように彼は言った。「だから顔を上げて」。
 わたしがゆるゆると顔を上げると、ウサギみたいな顔だね、と彼は笑った。
「えっとね、死ぬほどつらい思いをするのは、そんな思いをしても人になりたいと本当に思うやつだけを選り分けるためなんだよ。生半可な気持ちで人になったって、絶対後悔するから」
「そうなの……?」
 彼は頷いて、目を細めた。どこか遠くを見るように、その視点がわたしを透過していくのがわかる。考えごとをするとき、特に過去のできごとを思い出しているときの彼の仕草だった。
「人になると、キツネだった頃の記憶はほとんど忘れてしまうんだけど、一つだけはっきりと覚えていることがあるんだ。それが、僕が人間になりたいと思ったきっかけ」

 前後のことはわからないが、彼はそのとき怪我をしていたという。致命傷ではなかったようだが、足に傷を負い、歩くことができなかった。歩けなければ、逃げられなければ、いずれほかの生き物の餌になって死んでしまう。
 そんな絶体絶命の場面で、彼を地面から掬い上げたのは、人の手だった。
 人間は一等恐ろしい。目を付けられれば逃げ切ることは困難だ。彼は絶望的な気持ちになった。
 彼を捕まえた人は、彼をどこかへ運び込んだが、そのあとは唐突に記憶が途切れる。このとき麻酔を打たれたのだとわかったのは、人になってからのことだ。
 目が覚めると彼は檻の中にいて、気がつけばいつも新鮮な食料と水を与えられていた。時折、人の手が彼を掴んで檻の外へ出しては、足の様子を見られ、身体をあちこち触られたが、それもだんだん嫌ではなくなってきた。
 やがてほどなく、彼は元通りに素早く走り回れるまでに回復した。嬉しくて、人が彼を檻の外へ出すたびに、その手をすり抜けて走り回ったりもした。そのときは決まって、その人の明るい笑い声がするのだ。
 そんなことが日常になってきた頃、彼は移動用の小さな檻に入れられて、そして、懐かしい匂いのする地面へと下ろされた。湿った土と若い草花の香りに包まれる。
 その人は、檻の横にひざまずいて何事かを言った。人の言葉などわかるはずもないが、声の響きに慈しみが混じっているようには感じた。
 彼がなんだか落ち着かない気持ちでいるうちに、人は檻の側面の蓋を開け、そのままなにも語らず去っていった。
 土を踏む足音が遠ざかり聞こえなくなっても、彼はしばらく檻から出ることができなかった。
 場に充満する匂いは、ここが自分の生きるべき場所だと本能に訴えかけてくる。けれど今は、檻に染み着いた人の匂いからも離れがたい。
 そしてそのときになってふと、一つの考えが彼の頭に浮かび上がってきた。

「僕は、その人によって救われたんだと、どうしてか急にわかったんだ。救う救われるなんて概念自体、あの頃は知らなかったはずなのに」
 傷ついた彼は、人によって保護され、傷を癒して再びもといた場所へと還された。
 そうして今、彼がわたしの目の前にいるのだと思うと、なんだかそれがとんでもない奇跡のような気がした。
「人は稀有な生き物だね、他者のために泣くことができるなんて」
 遠くへ向けていた視線をわたしに再び定めて、彼はにっこりと笑った。
「同属でもないものに対しても慈悲を向け、手を差し伸べることができる。それは考えようによってはとても傲慢な行為かもしれないけど、僕はそういう、人のどうしようもなく優しいところに強く惹かれたんだ」
「……でも、人はあなたたちを殺しもするよ。酷いこともする。たくさん、たくさん」
「力のある生き物が、自分より弱い生き物を虐げるのは仕方のないことなんじゃないかなぁ。人の場合は知恵が回るぶん、残虐で、行きすぎた真似もするし、それを許すことはできないけど……だけど、そういう自分たちの負の面とも、人は向き合おうと努力してる。そういうすべてを踏まえて、僕は人になる道を選んだつもりだよ」
 どうしようもなく優しいのはあなたのほうだ。わたしは声に出さずに呟く。傲慢で、残虐で、許しがたい……そう言いながらも、なお人の持つ善良さを信じている。
 ふと、それは強さなのではないかと思った。信じる強さ、優しくある強さ。そしてわたしは、それがとても羨ましい。

「僕は獣医になりたい。あの日、僕を助けてくれた人のようになりたいんだ」
 それは、初めて彼が語ってくれた、はっきりとした夢だった。
 人になるためのつらく苦しい過程を支え続けた、彼の夢だ。
 けれど……わたしの頭は数日前に見たワイドショーの内容を思い出していた。動物から人になった者が、高等な専門教育を受けることの是非が語られていた。それによれば、動物出身者が高等な専門教育課程を修めた前例はなく、現状ではかなり困難だろうということだ。
 だいたいそうでなくとも、彼は結婚してまがりなりにも一家の長になるのだし、そんなに重荷を肩に積み上げて良いものか……。
 そこまで無意識に考えて、わたしははっとして慌てて思考をシャットダウンした。わたしは今、とても残酷なことを考えなかったか。彼に、彼が拠り所としてきた夢を諦めろと、そう言うつもりだったのか。
 獣医になる難しさは彼も自覚しているのだろう。わたしの様子を伺うような、やや上目遣いの目線でわたしの返事を待っている。
 答えは決まっていた。ただ、最後に自分に問いかける。「信じる覚悟はできたか?」――「YES!」
「じゃあ、あなたが世界初の動物出身の獣医さんになるんだね」
 決心がついてしまえば、笑顔は自然とこぼれた。彼は動物出身者として初めての獣医になる。その道のりを支える自分を想像して、悪くないんじゃないかと思う。
 彼はしばらく口を開けっぱなしにして、びっくりしているような放心しているような中途半端なアホ面をしていたけど、やがて姿勢を正してこうべを垂れた。
「ありがとう」
「ただし、途中で弱音吐いたら許さない。諦めるなんてもってのほか! なんとしてでも獣医さんになってもらいますから」
 垂れたこうべに向かって宣告する。彼は顔を上げて、目尻の下がった丸顔に笑みを浮かべてわたしを見た。
「あ」
 と、彼が意味不明な一音を発した。わたしへ向かう目線がやや手前で落ちる。残り僅かな具材が、鍋の中で干からびようとしていた。
 わたしたちはようやく、自分たちが食事中であることを思い出した。



2014/02/03 初出