アカリちゃんとコウノくん◆社会人編

文字でつながる恋

 携帯電話が「ちりりん」と鈴のような音色で着信を告げた。わたしは、机に広げた仕事から顔を上げ、右手奥、教科書や参考書を積み上げた上から、携帯を摘まみ上げる。
 待ち受け画面に大きく表示されたデジタル時計の表示は、「1:57」。午前一時五十七分。もうこんな時間なのかと、わたしはそこで少しぎょっとする。早く寝なければ、明日に響く。
 素早く暗証番号を入力すると、見慣れた簡易メッセージの画面が開く。一番下に新規の着信が吹き出し型に囲まれて表示されていた。着信時刻はつい一分前。
 わたしは無意識に、あちらとの時差を計算する。イギリス・ロンドンは日本からマイナス八時間……、向こうはちょうど仕事が終わった頃だろうか。
 メッセージの内容は、冬休みの予定について訊ねるものだった。とても簡素に、まとまった時間があるかどうかを訊ねる文言。このメッセージの送り主は、いつもこんな感じでそっけない言葉ばかりを送ってくる。実際に面と向かって喋れば、役者張りに大げさで起伏だらけの喋り方をする上に、無駄に装飾的な言葉を多用するくせに。
 ――そんなギャップを「いいな」と思ってしまったわたしもわたしだけど。
 わたしは壁に貼り付けたカレンダーをしばらく眺める。今年四月から翌年三月までの日付が並ぶ、一枚もののカレンダー。今はまだ十月で、十二月の予定はまだなにもなかった。
 わたしは、冬休みの予定がまだ空白であることを打ち込み、しばらく考えて「一週間くらい?」と付け足す。一週間、あなたのために時間を使えますよ、という意味を込めて。
 相手からの返信は早かった。「それなら」と提示された期間は、元旦を中心に据えた一週間だった。そして、次の一文にどきっとする。
《こっちへおいで。》
 てっきり帰省してくるものだとばかり思っていた。帰って、お互いの家に新年の挨拶に行って、おこたでのんびり駅伝でも見て、それから一泊二日か二泊三日でリフレッシュ旅行……そんなスケジュールを頭が勝手に組み立てていた矢先に、とんでもない爆弾発言だ。
《帰って来ないの?》
 わたしはとりあえず返答を先送りにした。といっても、ものの数秒しか間は持たない。「うん」という簡潔過ぎる返事。相手もさすがにこれは酷いと思ったのか、直後にもう一度着信。わたしの手の中で、携帯が震える。ついでにわたしの心臓も震えるようだ。
《最後の年だから》
 ――ああ、そうだった。
 彼のロンドン滞在は今年の夏までの予定だ。向こうの大学を卒業して、日本へ帰ってくる。……成績次第では帰ってこないかもしれないが。
 彼を、空港のロビーで見送ってから、もうすぐ二年が経つということだ。



 彼とは、大学在学中に知り合った。一つ年上の先輩で、美術学部生および美術部員として、学内ではそこそこの有名人。プロのグループ展にもお呼ばれしちゃうような、才能豊かな若手アマチュアアーティストとして、彼の華々しい人生はすでにスタートしていた。
 一方のわたしは、成績も振るわない社会学部の地味な学生だった。友達もさほど多くはなくて、「学生生活」と聞いてイメージするような青春とはおよそ無縁な毎日を送っていた。
 そんな彼が、ある日なぜかわたしに告白をしてきた。面識がなかったわけではないが、さりとて顔を合わせたのも言葉を交わしたのも、それまで数えるほどしかなかったから、心底驚いた。
 そんなだったから、初めの告白は断った。……そこから都合三回、ことあるごとに告白されて針の筵に座る思いをすると知っていたら、よくよく考えもせずに断りはしなかっただろう……。彼が、周囲の耳目を集めることも憚らず、公衆の面前で声を大にして口説き文句を連発することも厭わない人物だと知っていたなら……。
 彼は成功者なだけではない、顔もスタイルも服のセンスも素敵だった。喋らせればユーモア抜群で誰からも好かれるし、無口で偏屈気味なわたしとは、どう考えても釣り合わないと思ったのだ。だから三度、断った。
 四度目の告白は、食堂で一人でお昼ご飯を食べていたとき。食事中という無防備な瞬間に奇襲をかけられ、わたしはついに彼に征服された。
 とてつもなくお腹が空いていたこと、次の授業までの時間が迫っていたこと、その日のメニューがわたしの好きな若鶏の唐揚げであったこと。諸々の要素が重なって、わたしは「はい」と返事をしてしまった。
 一度彼のペースに飲み込まれてしまえば、わたしにはもう為すすべがない。だから、あれはまさに征服の瞬間だったのだ。
 学年も学部も違うわたしと彼は、おそらく平均の学生カップルよりも遥かに一緒に過ごす時間は短かったけど、べったりでなかったことが逆に幸いしたのか、お互いが卒業してからも長続きしている。一応、恋人としてはお互いの家族の公認まで取り付けた。
 そして彼は、卒業と同時にイギリスの美術大学へ留学して今に至る。ついでだからと向こうの企業に働き口も見つけたらしく、二足のわらじで忙しくしているそうだ。
 そしてわたしはその間、なんとか教員免許と就職先を得て、不甲斐ないなりに教師などやっている。



 メッセージを前に、わたしはほんのしばらく、悩みに悩んだ。けれど、返答を先送りにはしたくなくて、結局はOKの返事をした。OKしてから、はじめっから断るつもりもなかったのになにを悩んでいたんだと自分に照れ隠しのツッコミを入れたりした。
 彼からの返事を待つ間、静かな部屋の中で自分の心臓の鼓動だけがやけにはっきり聞こえる気がした。
 だって、いろいろ想像してしまうではないか。外国で二人で過ごすということは、その期間ずっと二人一緒ということにはならないか。一週間ともなれば、疑似的な二人暮らしだ。しかも、年越しという特別なタイミングで。
 ――付き合って三年は……さすがにプロポーズには早いかな?
 ふっと浮かんだ思考を、首をぶんぶんと振って追い払う。女子的思考なら真っ先にそうなるが、男子の思考回路は女子よりもロマンに欠ける、となにかの本に書いてあった。しかも彼は、芸術的才能に恵まれたぶん、人よりちょっと気をてらったことをする傾向がある。世間一般の恋人像に重ね合わせて考えるのは危険だ。
 そこまで考えたところで、掌に再び振動。「ありがとう」と、それから、
《電話していい?》
 そう、こういうのを律儀に訊ねてくる人だ。ずかずかと他人の領域に入ってくるようで、実はけっこう遠慮深くて、臆病で。
 声を聞きたい。でも、と思う。今日はここまで彼に主導権を握られっぱなしだ。
 大学時代の先輩後輩の関係が残っていた時期ならともかく、今はお互い卒業して大人になった。だったら、大人同士の対等なお付き合いとして、ここでわたしにも主導権を握るチャンスがなければ不公平ではないか。そう思って、返信を送る。
《ダメ。今日はもう遅いので》
 伊達に恋人をやっているわけじゃない。相手の思考パターンをある程度読んで、ちょっとしたイジワルを仕掛けるくらいはできる。
《ちょっとだけ》
 案の定、食い下がってきた。一度ですんなり諦めるようなら、わたしたちはそもそも成立していない。
《じゃあ、電話したら、次会うまで通話禁止だよ?》
 わざとらしく、普段は使わない絵文字なんかも添えて。これが本意じゃないイジワルだよ、というのをアピールしながら。
 返信は、即座だった。八時間の時差と物理的な距離を飛び超えて、メッセージは彼の存在をこんなにも近くに感じさせてくれる。
《死んでしまう。また、明日》
 彼からの返事は、相変わらず、平坦で感情の見えない文字列。
 でも、彼にしては「死んでしまう。」は常にないほどの感情表現だ。「。」を「!!!!!!」に置き換えても良いくらいだろう。きっと彼も、同じように画面を眺めながら、イジワルに少し笑いつつ返事を打ち込んだのだろう。ついでに、ちょっと寂しそうだったり悲しそうだったりすればわたしが嬉しい。
 だって、わたしも今は寂しいし悲しいから。本当は、声を聞きたかった。とっても聞きたかった。聞いて、冬休みの計画とか、他愛ない話をして笑いたかった。
 そのすべての感情を押し込めながら、メッセージを打ち込み、送信する。
《また明日。おやすみ》
 おそらく、今夜最後のメッセージに、携帯が鈴を鳴らす。
《おやすみ》
 もう、幾度となくやり取りした、一日の終わりのメッセージ。
 わたしは、それを見届けて携帯の画面をオフにする。携帯のもとの位置に戻して、再び机に広がる仕事に向き合った。
 ――早く終わらせて、早く寝なきゃ。
 だってそうしないと、明日にならない。明日にならなければ、いつまで経っても冬休みはやってこない。
 ペンを握る手に、きゅっと力を込める。



2014/10/03 初出