彼の夢

 夢を見た。
 淡い色調で彩られた豪奢な部屋は、既に夜の闇の中。その中、寝台の傍らのランプに明かりを灯し、少女が弟を寝かしつけている。
 幼さに加え、病気がちで身体の小さな弟に、寝台はあまりに大きい。彼は、少女のいるほうへと仰向けた身体を寄せ、彼女の手を片手で握っていた。
 少女は弟の手を握る手とは逆の手で、彼の胸元あたりでトントンと優しくリズムを取る。ふくよかな唇を小さく開いて、子守唄を口ずさみながら。
 弟は目を閉じているが、まだ寝付いていないことがその呼吸から分かる。それもそのはずで、姉を愛する彼は、こうやって姉と二人で過ごす時間に寝入ってしまわぬよう、必死なのだ。目を閉じているのは、目を開いていてもなにも見えないから。彼の目は、生まれつきわずかな光しか感じることができなかった。
 姉の柔らかな歌声に、幼い身体は眠りの領域へと否応なくいざなわれていく。
 弟は、姉の歌と夢の入り口のあいだで、いろいろな景色を見る。それは、彼の知らない、輝きに満ちた風景たちだ。
 わずかに浮かび上がる光の姿から、姉や付き添い人がそばで語り聞かせてくれる言葉から、彼は頭の中に世界を創り上げる。それはとても美しい、彼の理想の世界。
 少女の声で、歌声は続く。
 春先の暖かな太陽のような、穏やかな歌声を天から降らせて広がるのは、淡いベビーブルーの空と、波打つ丘陵となって広がる萌黄色の大地。そのところどころにきらきらと光る花々は、夜明けと夕暮れの一部を切り取った、すなわち、紫色、桃色、橙色、そのあわいにあるさまざまな刻(とき)の色……。
 吹き抜けるそよ風は、薄い衣を纏わせるようなやわい温もりを孕んでいた。
 そして、その風景の真ん中にはいつも、彼の愛する少女がいる。
 姉はいつも、彼に背を向けて立っている。髪の毛は、光から一筋ずつ縒(よ)って作ったかのように輝かしい金色で、腰まで届く真っ直ぐなそれは、ふわりふわりと風に遊ぶ。
 姉上。
 その後ろ姿へ、彼は呼びかける。できることなら走って行きたいけど、彼自身はその風景の中へ入って行くことはできない。陽光の暖かさも風の柔らかさも感じることができるのに、目に映る景色だけは、まるでカンバスに描かれた絵画のように隔絶されているのだ。
 けれど、絵画の中の姉は、彼の呼び声に気付いてかすかに顔を上向けて、それからゆっくりと振り返る。金髪がヴェールのようにそれに追随した。
 愛しい姉のかんばせが、彼の視界に入ろうかという刹那、彼の肉体は眠りの国の門をふいとくぐってしまう。心がどれだけ抗っても、その瞬間を止めることなどできはしない。
 弟が眠りに就いたことを手のひらに感じて、少女は歌を次第にやめていった。リズムを取る手が、安らかに上下する彼の胸元で止まる。幼く頼りないその温もりを肌に感じ、少女はもう一方の手を握る弟の手から、するりと自分の手を引き抜く。最後に一度、その手をあやすように包み込んで、離した。
「おやすみ」
 少女は、ごく小さな声で語りかけ、寝台の傍らの椅子から立ち上がる。
 枕元のランプを取り上げ、寝台近くの窓辺へと遠ざけた。
 紫色を基調に、桃色や橙色へのグラデーションでさまざまな色の光を生み出すランプは、少女が気に入って弟へプレゼントしたものだ。
 目が不自由で、ほんの少しの光しか感じられない弟のために、より美しい光を、彼が「見る」ことができるように。
「おやすみ、アロイス」
 再度繰り返して、少女はその部屋を静かにあとにした。
 夢はここで終わる。



2014/10/08 初出