砂塵の国の吟遊詩人

 今どき、木製のギターなんて珍しい。それを爪弾く男は、まだ年若く、せいぜい二十代も半ばだろうと思われた。空色を少し薄めたような淡い髪は、真っ直ぐに背中へと流れ、同じ色に少し緑を混ぜたような瞳は、今は閉じられて、代わりに、開かれた唇から朗々と歌声が響く。
 木製の楽器と同じように、歌手なんてもうとっくに絶滅した職業だと思っていた。むしろ彼の場合は、もはや物語の中でしか出会うことのできない、吟遊詩人といった風情か。世界各地を旅して歩き、見聞きした出来事から歌を作り、歌いさすらう。
 小さな宿に併設された酒場の、粗末な舞台で、吟遊詩人の男は、山向こうにある鉱山の町のことを、ゆったりとしたリズムに乗せて歌っていた。
 鉱山の厳しい仕事の中で、故郷を懐かしんで泣く子供たちの歌だった。
 鉱山の仕事に就く者たちの中には、口減らしのために売られた子供たちも少なからずいる。環境に恵まれれば、彼らは親方と呼ばれるベテラン鉱夫の元で厳しくも大切に育てられるが、そうでなければ、過酷な労働ばかりを強いられて、やがて死んでしまうか、あるいは、怪我や病気で健康な身体を失ってしまう。
 歌を聴く限り、山向こうの町の子供たちは、恵まれなかった子供たちなのだろう。
 酒場に集った男たちは、吟遊詩人の歌に聞き入っている。時折、すすり泣く声までが小さく上がった。
 この町も山向こうの町と同じく、鉱山の資源によって成り立つ町だ。出稼ぎの男たちと売られて来た子供たち、彼らを相手にする商人たちで構成されている。誰もが、歌の中の出来事を我がことのように思っているのだろう。
 吟遊詩人の男の歌声が静かにやみ、ギターが最後の一音を鳴らしても、酒場は賑わいを取り戻すことはなかった。
 と、男は閉じていた瞳をぱちりと開き、先曲の余韻も消えぬところへ、不躾にギターの大きな音を叩き込んだ。観客がぎょっとして舞台を注視する。注目を浴びた男は、飄々とした笑みを浮かべながら、奏でる音色のテンポを上げ、そこへ自分の声を乗せた。湿った空気を追い払う乾いた突風のように、場の空気を一変させる強い歌声だった。

      宵の明星が昇った   俺たちの女神星
      仕事は仕舞いだ    鐘を打て
      夜の帳が降りるぞ   今夜は踊ろう
      夜の自由がやって来る 篝火焚いて 踊り明かそう

 それは、この地方の鉱夫たちに伝わる職人歌だった。一日のきつい労働の終わりに歌う、解放の歌。
 先ほどまで哀しみに暮れていた人々は、わっと一斉に歓声を上げ、椅子を蹴り倒して立ち上がった。たちまち、割れんばかりの唱和の歌声が、酒場全体を包み込む。酒杯を打ち鳴らし、千鳥足でどたばたとステップを踏んで、それが可笑しくてたまらないというように、「ぎゃははは」とあちらこちらから笑い声が飛んだ。
 酒場は、いつもよりも夜の遅くまで、盛り上がりが絶えることなく続いた。



 愛用のギターを注意深く分厚い布へくるみ込んでいる若者の背に、宿の店主はそっと声をかけた。
「あんがとよ。お陰で久々に楽しい思いをさせてもらった」
 若者は背中越しにちらりと青緑色の瞳を向けて、笑みも見せずにそっけなく答える。
「こちらこそ。……この町は、活気があっていい」
 そう言った若者の声は、何曲も歌い通したせいか、少し掠れていて、それがどことなく寂しげだった。
 店主は思う。この町だって、どうにかやっていけている程度の、本当に貧しい所だ。鉱山の資源はまだまだ見込みはあるものの、昔ほどの高値では到底売れなくなっていた。取引先である都市部が疲弊して、金払いが悪くなっている。
 資源が思うような値で売れなければ、町は集う職人たちの暮らしを保障してやれない。だから山向こうの町では、金のかかるベテラン鉱夫の割合を減らして、その分を、まだ幼い子供たちを買って補おうとしている。だが、そうやっていたずらに経費を削減しても、人は育たず、ゆくゆくは立ち行かなくなることなど、火を見るよりも明らかだった。
 掠れ気味の声で、若者は静かに言った。
「どこもかしこも、今にも死んでしまいそうなありさまだ。山向こうの町じゃ、声を殺して泣く子供と、そんな子供を鞭打つ鬼のような大人の怒鳴り声ばかりを聞いた」
 蝋燭の光に照らされて、若者の表情はくっきりと陰影を描いていた。まだまだ若いはずなのに、どこか虚ろな目元や、疲れて中途半端に開かれた口元から漂う気配は随分と年老いて見えた。
「……こんな世界でも俺は歌い続けなきゃいけないのかと、ときどき嫌にもなる」
 木製のギターを包む布がほどけないよう、結び目を確かめて、若者は立ち上がった。色素の薄い、珍しい色の髪が動きに合わせて揺れる。
 どこまでも非現実的な存在だ。とっくの昔に森林が消え失せたこの地では、木製の道具はもうほとんど存在しないし、まして音楽を奏でる楽器など、ますますもって珍しい。音楽という娯楽は、店主が子供の頃には当たり前に存在していたが、それから数十年であっという間に衰退してしまった。世界が、音楽を許す余力を失ってしまった。
 かつて、森が失われる前の大昔、森の中にだけ住む神秘的な人々がいたという。吟遊詩人のこの若者は、その生き残りなのではないかと、店主はふと考えた。
「酒は飲めるのか?」
 飲めるなら一杯どうだ、と店主はカウンター席を指し示した。若者は何も言わず、黙ってその席へ座った。飲めるのだろうと店主は判断する。
 酒の種類はそう多くない。鉱夫たちが好んで飲むのは安い酒ばかりだが、その中にも少しは良し悪しの分かる客もいるから、店主は秘蔵の品を幾つか隠し持っていた。今日はそのうちの一本を開けてしまおう。
「好みはあるのか?」
「不味くなければ大抵は」
 若者は無表情に難しい注文をつけてきた。各地を渡り歩いているなら、舌もそれなりに肥えているのかもしれない。
「悪いが、こんな場所じゃ美味い酒は出せないよ」
 そう言って、店主は秘蔵の酒の栓を抜いた。
 酒も、昔は今よりずっと美味いものが多かったらしい。種類も豊富で、果実酒や穀物酒といったものも安価で美味いものが出回っていたとか。その頃に、酒の飲める年齢でなかったことが悔やまれてならない。
 今、酒といえば、化学生成されたアルコールに人工の甘味料で味を付けたものばかり。だが、その中に時折、「本物」がどこからともなく売り物として現れる。勿論、質の良い「本物」には目玉が飛び出るほどの値が付けられているから、店主が手にできるのはせいぜい中の下ランクの「本物」に過ぎないが、それでも「本物」は「本物」だ。
 二つ取り出したグラスに、琥珀色の酒を満たす。一方を若者の前へと差し出し、もう一方を自分の手元へ引き寄せた。
 若者は、しばらくは琥珀色の揺れる水面をぼんやりと眺めていたが、やがておもむろにグラスを持ち上げ、少しだけ傾けた。乾杯もなにもありはしなかった。
「いい酒だ」
 若者はそれだけ言った。店主も自分のグラスに口を付ける。久しぶりに飲む「本物」の味は、悪くなかった。
 そのままなんとなしに沈黙が続いたが、ふと疑問に思って店主が質問をした。
「そのギター、どうやって手に入れたんだ?」
 恐らく、道々で何度も尋ねられた質問だろう。それが証拠に若者は顔を上げもせず、ぼそりと「貰った」と言った。
「呪いみたいなもんだ。これを持つ限り、おまえは旅することも歌うこともやめることはできない、って、そういう呪いを吐き続けるんだ、こいつは」
 若者の顔はグラスの上に深く伏せられ、表情を窺うことはできない。舞台での堂々とした歌声と立ち居振る舞いからはかけ離れて、彼の態度には愛想というものが微塵も感じられない。
 だが、その理由もなんとなく分かる気がする。根なし草の旅の身の上で、ましてこの不毛の大地を歩き回ったとて、彼を待つのは、目をそむけたくなるような現実ばかりだろう。
「やめたいのかね」
「やめたかないがね」
 溜め息をつくように言って、若者はもう一口、酒を飲んだ。口に含んで味わうこともせず、直接喉へ流し込んでいるような飲み方だった。
「やめたいと考えることはしょっちゅうだ。どこにも居場所を持たず、ただ世界を傍観し続けるのは、つらい」
 それきり若者は口を利くことはなく、気まぐれに杯を傾けて中身を干すと、すぐさま立ち上がって部屋のほうへと消えた。
 その去り際に、店主はぼんやりとした頭でこう言ったことだけを覚えている。
「つらいことしかない人生だ。だけど、今日のあんたの歌は、本当に良かったよ」
 過酷な世界の中で苦しみもがく子供の嘆き歌。つらいことをただつらいと歌っただけのそれだったが、そんなものが人を慰めることもあるのだ。
 若者がそれに言葉を返したのか、店主は覚えていない。
 吟遊詩人の若者は、翌日、鉱山の労働の音が鳴り出す頃に町を発っていった。



2014/11/10 初出