愛し君が眠るまで

「これ以上の逃げ隠れは許しませんぞ、王太子殿下!」
 出先から戻るなり、年かさの家臣に一喝されてしまった。
「今日という今日は、御覚悟をお決めくださいませ!」
 大声でそう言われるのがなかなか気まずい。内容が内容だけになおさらだ。
 ちらりと周囲を見渡せば、隅に寄って口元を扇で隠して囁き合っていった女官たちと目が合い、逸らされる。言わんこっちゃない……。
「姫様もすっかり気落ちされているとの由。今夜こそ必ずや、御渡りになられませっ!!」
 だから、そういうことを大声で堂々と言うのはやめてくれ。
 王太子、弥皐は苦り切った顔でその大音声を受け止めた。



 夜が来た。周囲の視線が痛い。なぜだ、なぜこんな状況下で女のもとへ通わねばならないのだ。弥皐は、女官が用意した衣に袖を通しながら、未だに乗り気になれなかった。衣からは、ほんのりと上品な香りが漂っている。
 臣下の誰かが、先触れの歌をもう姫のもとまで届けたと言っていた。随分と情熱的な歌を拵えたらしいが、その歌を誰が用意したのかも、弥皐は知らない。本来なら弥皐自身が用意をしなければならないのだが、あいにくと歌の才には恵まれていなかったし、面倒だからそもそも考えてもいなかった。
 盛大な溜め息が漏れそうになるのを、ぐっとこらえて廊下を渡る。
「なんだよ。女のもとへ通うってのにそのツラはないんじゃないか」
 途中で、そんな不躾な言葉を投げかけられた。誰奴と問うまでもない。この大内にあって、王太子の弥皐に馴れ馴れしい口を利く人物など、一人しかいない。
 渡り廊の途中に造られた小さな坪庭。そこに植えられた木蓮の幹に身を預けて、一人の男が立っていた。色白が美しいとされるこの都にあって、浅黒い肌がとても目立っている。
 南方の海洋国から留学してきた、弥皐の学友の青年だった。
「おまえの国じゃどうか知らんが、この国じゃ顔も分からん女のもとへ男が通うのが決まりごとでな。しかもこっちにその気もないのに、周りのうるさいのがせっついてくる」
「ははは、おまえが愚痴っぽくなるとは珍しい。女遊びは嫌いか?」
 弥皐はようやく足を止めて、己の学友の姿をはっきりと見た。
「遊んでいる暇はない」
「なに言ってんだよ」
 木蓮の人影は、まるで嘲笑うように鼻を鳴らす。
「おまえは常日頃から自分の好きなように生きる努力をしているじゃないか。それを『遊び』って言うんだよ。遊んでばっかいないで、たまには責務を果たせ、王太子」
 あまりにも鮮やかな返しは、弥皐の陰鬱な気持ちを少なからず晴らしてくれた。
 これも将来のために必要なことかと溜飲を下げて、弥皐はいよいよ相手のもとへ向かった。



 姫宮の女官たちは、澄ました顔で弥皐を迎えた。男女の付き合いが、一時が万事こうだから、弥皐は嫌いだ。本人たちだけでは成り立たず、必ず双方の女官を通して関係が構築される。なにがしとなにがしがどこまで行った関係だの、そういう情報は、宮中の女官たちによってすべてが共有されているというのは、気持ちが悪い。
 姫宮の庭には、沙羅の木が生垣を成している。花の季節にはまだ早いが、青々とした生垣は立派なものだ。この生垣から取って、姫宮は「沙羅の宮」「沙羅姫」などと呼ばれる。弥皐の叔父の娘、つまり弥皐とは従兄妹の関係に当たる。
「沙羅姫、入るぞ」
 弥皐は正式な訪いの言葉をあっさり省略して、御簾の向こうへ潜り込む。背後で女官たちが声もなく色めく気配がしたが、さりとて「やりなおし」などと咎めることはできまい。
 暗闇に目が慣れてくると、正面に、呆気に取られた様子で座り込む姫君の姿が見えた。
 艶やかな黒髪に縁どられた白いおもてには、まだあどけなさが残る。可愛らしい姫君だ。
「久しいな、沙羅姫」
 沙羅姫とは実は初対面ではない。従兄妹という間柄もあって、姫が裳着を済ませて大人の仲間入りを果たすまでは、わりと気軽に会っていた。姫が大人になり、会うためにやたこしい手順を踏まなければならなくなってからは、弥皐が多忙になったこともあって、かなり長いこと会っていなかった。
「お、王太子殿下! ご、ご無沙汰、しております……」
 あまりにも軽い調子で現れた弥皐に驚いていた沙羅姫は、はっと気が付いて勢いよく頭を下げた。平伏して縮こまる姿は、狼を前にした鼠のようだ。
「そのように畏まるな。以前と同じようにしていれば良い。……俺も、今夜姫をどうこうしようとは思っておらぬ」
「え?」
 沙羅姫は、今度は勢いよく頭を上げた。丸く愛らしい目がこぼれそうなくらい大きく見開かれている。
 そして次の瞬間、弥皐の思いがけぬことが起こった。
 大きく見開かれた沙羅姫の目から、ぽろりと大粒の涙が落ちたのだ。それも、一滴に留まらぬ幾つもいくつも。
「ふぇ……」
「な、なぜ泣く……っ」
「ふぅ……っも、もうしふぇ……ごぁいま……」
 袖で顔を隠すのも忘れて、沙羅姫は呆然と涙を流し続ける。その原因が皆目見当も付かず、弥皐はしばらく途方に暮れた。
 それから致し方ないと腹を決め、沙羅姫の前に膝を折る。躊躇は一瞬。
 弥皐は、座り込んではらはらと涙を流す沙羅姫の身体に両腕を回し、その頭を肩口に抱え込んだ。
「ででっ、でんか……っ!」
 恐らくそう言った沙羅姫の言葉はしかし、衣に音を吸い取られて明確な声にはならなかった。
 初めは弱々しくも抵抗をする力を感じたが、やがてすっかり諦めたのか、腕の中で沙羅姫は大人しくなった。
 どれくらいそのままでいただろうか。
 やがて、すすり上げる音も鳴らなくなり、代わりに、耳元に安らかな寝息が聞こえてきた。
 ようやく落ち着いたかと、弥皐は安堵の溜め息をつく。
 そして、次の問題点にぶち当たった。
 果たして自分は、沙羅姫が目を覚ますまでこのままでいなければならないのだろうか。それはとんでもなく退屈なことなのでは……。
「ん……むぅ……」
 思案する弥皐の首元で、沙羅姫が喉を鳴らす。そっと覗き込んだ寝顔が思いがけず愛らしく見えて、弥皐は胸のうちでそっと考えを改めることにする。
 案外、これも悪くはない。



2015/04/19 初出
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お題「○○が眠るまで」