今日のこの日を、どれほど待ち焦がれただろうか。
沙羅は、その熱烈な歌の書きつけられた文を胸に抱いて、くすくすと笑みをこぼした。
歌の差出人は、王太子殿下。沙羅の従兄にあたる御人だ。近頃では武将としても誉れ高いその人は、反面、筆不精で書や歌の才はからっきしだということを、沙羅は知っていた。だからこれは、近しい臣下に書かせた代筆に相違ない。
それでも、沙羅にとってその内容は待ちに待ったものだった。
「ようやくお会いできる……」
同じ王族の子として、小さい頃はよく遊んでもらっていたものだが、沙羅が、成人の儀である裳着を済ませて子供から女になってからは、交流もぱたりと絶えてしまった。
だが、それでも沙羅は再会を諦めたことなどない。王太子も沙羅も年頃で、王族として申し分のない血筋に生まれついている。二人がやがて結ばれることは、二人が生まれたとき、すでに決まったも同然だった。
ところが、沙羅が裳着を済ませいよいよという頃になっても、王太子は一向に沙羅のもとへやって来ない。王太子に近しい臣下たちがそれとなく諭しても、王太子はのらりくらりと躱してまるで興味を示さないのだという。探りを入れてくれた女官にそう告げられて、沙羅は傷つかずにはいられなかった。
小さい頃はあれほど仲良く遊んだものを、しばらく会えないでいるうちになぜ避けるようになってしまったのか。その理由が、沙羅にはまるで分からなかった。
こちらはもう、いつでも王太子を迎えられるように万端整えて待っているというのに。
だが、沙羅がどれほど待ち焦がれようと、王太子がどれほど逃げ隠れしようと、そもそもこの縁に本人たちの意志は関係ない。さしもの王太子も、その決定を覆すことまではできなかった。
そして、ようやくの今日の文である。
夜の帳が降り、春の、まだ肌寒い夜風が仄かに花の香りを連れてくる。
沙羅は褥の上で、胸を高鳴らせて来訪者を待ちわびた。
そして不意に、御簾を透かしてその影が訪れる。
「沙羅姫、入るぞ」
夜の訪問にはあまりにも開けっぴろげな挨拶だった。続けて、御簾をかき上げて、ついにその人が沙羅の前に現れた。
褥の上に座した沙羅を、上背のある王太子が見下ろす。その御顔は、しばらく会わないうちにずっと男らしさを増して精悍になったが、沙羅の知っている優しい雰囲気は数年前とまったく変わらずそこにあった。
「久しいな、沙羅姫」
低く響くその声に、沙羅は痺れを感じた。いつまでもその御顔を見つめて、御声に耳を傾けていたい。そう思った矢先に、本来取るべき礼儀を思い出して慌てふためく。
「お、王太子殿下! ご、ご無沙汰、しております……」
指を付いて深く礼をする。すぐそばに、王太子が座る気配がした。
「そのように畏まるな。以前と同じようにしていれば良い」
王太子の言葉に、沙羅は感激した。昔のことをちゃんと覚えていてくれたことが、本当に嬉しかった。けれど、そんな喜びは次の彼の言葉で打ち砕かれた。
「……俺も、今夜姫をどうこうしようとは思っておらぬ」
「え?」
頭が真っ白になっていく。耳の奥で、さぁ、と血の気の引く音が聞こえた。
夜、正式な文を取り交わして男女が交流するとなれば、もうそれは婚姻と同義だ。それなのに、王太子はこの場で事を成すつもりなないと言う。沙羅にとって、それは予想だにしない言葉だった。
王族や貴族の娘は、高貴な殿方に添うて生きるために育てられる。それ以外の生き方を選ぶことはできない。
だからこそ、このときの沙羅の動揺は到底押し留められるものではなかった。王太子と共に生きる以外の道などない。それなのに、当の王太子に拒まれてしまった。沙羅はそう感じたのだ。
「ぅ……ふぇ……っ」
泣いてはいけない。みっともない姿を見せてはいけない。そうは思いつつも、溢れる涙をこらえることができなかった。
「な、なぜ泣く……っ」
慌てて顔を隠そうとしたが、それに先んじて、王太子の手が沙羅の頬に触れた。夜気で冷えた頬が、心地よい熱に包まれる。その熱が、張り詰めていた沙羅の心を弛緩させてしまった。
「っも、もうしふぇ……ごぁいま……」
それ以上はもう言葉にならず、沙羅は子供のようにただただ泣きじゃくった。
王太子は動揺してなにごとか声をかけてきたが、もう沙羅にはなんの意味もない。
見かねた王太子は、やがて沙羅をその懐に抱き込んで、子供をあやすように背中をさすり始めた。
そうしてもらったことは覚えているのだが、沙羅にはもう抗うだけの冷静さは残っていなかった。沙羅はすっかり幼い心に戻って、その温もりの中でただただ涙を流した。
沙羅は、ふっと目を覚ました。知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。目に、金色の混ざった白色の光を感じる。夜明けだった。
「起きたのか」
思いがけず近いところから聞こえた声に、沙羅はびくりと身体を震わせた。声は、頭のすぐ上から聞こえてくる。
「寝かせようかと思ったのだが、離そうとするとぐずるから、結局ずっとこのまま過ごしてしまった」
王太子はさらっと言って、軽やかに笑った。
沙羅はびっくり仰天して、勢いよく後ずさった。王太子と密着した身体を引き離し、平伏する。
「申し訳ございませんでした……! わたし、なんてご無礼なことを……」
「良い。おまえの寝顔を見ながら考えたが、どうやら俺も随分と酷なことを言ったようだ」
「そ、そのようなことなど……!」
「沙羅姫、顔を上げよ」
命じられて、沙羅は前のめりのまま、顔だけを王太子へ向ける。
王の血筋は太陽の血筋。朝の光の中にある王子は、夜陰に見るよりもずっと神々しく見えた。
彼は不意に真剣な面持ちになり、沙羅に告げた。
「今しばらく俺を待つことができるか、沙羅姫。それは数ヶ月、あるいは数年後になるかもしれん。おまえが待つと言ってくれるなら、俺も、おまえのことを想ってこれからの日々を過ごそう」
それは、沙羅の予期していた形ではないにせよ、間違いなく、沙羅の待ち望んだものだった。
「……はい!」
それからのち、王太子は宮中に留まるあいだは頻繁に沙羅姫のもとへ通うようになる。ところが、二人は毎夜眠ることもなく夜明けまでひたすら語り合って過ごすため、側仕えの女官たちを非常にやきもきさせることになるのだが、それはまた別な話。
2015/04/24 初出
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お題「夜明け」「あふれてこぼれた」