牛乳はあっためてください

 旅も佳境に差し掛かってきた折のこと。南から北への旅の途上で、次第に夜の肌寒さが際立つようになっていた。
 天涯孤独の少女フォニは、それまで自分の故郷を出たことがなかった。それが、血の繋がらないたった一人の家族を、遠い異国の地へと連れ去られてしまったことで一変する。同じ年の同じ日に生まれ、その日から見えない絆で結ばれて来た、たった一人の姉妹、ザクリ。
 ただ家族を取り戻したい一心で故郷を飛び出したフォニは、しかしほどなく旅の難しさを痛感することになる。路銀などもともとないに等しく、旅行の心得もなかった。
 そんな彼女の窮地を救う、奇特な人物が現れなければ、フォニはここまで来ることはできなかっただろう。
「フォニ!」
 小さな宿場町のはずれ、なだらかな丘陵から沈む夕日の色を眺めていたフォニを、背後から大声で呼ぶ声がした。振り返れば、優男風の青年が手をひらひらと振りながらこちらへ近づいてくる。すり切れた旅装束を少し着崩した姿は、ふざけているようにも見えるが、それがどこか様になっているようにも思える。
 夜が来る前には戻ると伝えたのに、わざわざ呼び戻しに来たのだろうか。それとも、フォニと同じく夕日を見るために出てきたとか?
「君には太陽が似合うね」
 フォニの傍までやって来た青年は、そう言いながら手に持っていた布を広げて、フォニの肩にかける。その大判のストールは、小柄なフォニの身体を太腿あたりまで覆う。
「性格は嵐のようだけど」
「どうしたの? エラリィ」
 青年、エラリィは、旅の劇団に所属する劇作家だ。先ほどから飛び出している言葉がどこかセリフ臭いのもそのせいで、飾り立てたような言葉を気取らずに発してしまう。初めのうちは戸惑いもしたが、それがただ装飾を施しただけの彼の本音だと思えば、特に気にもならなくなった。
 旅先で壁にぶち当たったフォニを救い、ここまで導いてくれたのが、このエラリィだった。行き倒れ同然だったフォニに目を付け、フォニの旅を助ける代わりにとある交換条件を提案して、フォニと「契約」を結んだ。
「フォニ、このあたりは夜になると一気に気温が下がるそうだ。早めに戻ったほうがいい」
「……そうね」
 確かに、先ほどから風を冷たく感じるようになっていた。きっと夕日が沈むまで見送っていれば、身体はすっかり冷えてしまうことだろう。
 旅をする上でまず重要なのは、自分の身を健康に保つことだ。無茶は決してしてはいけない。食事と睡眠は言うに及ばず、暑さ寒さの対策は欠かすことができない。
 夕日を眺めていた気持ちはあったが、旅の保護者であるエラリィの言葉にはできるだけ素直に応じたほうが良い。そう思って、フォニは夕日を背にして丘を降りることにした。
「……泣いていたかと思ったよ」
 フォニの半歩後ろを歩きながら、エラリィが言った。冗談でしょう?
「前に話さなかったっけ? わたしは泣けないって」
「ああ、知ってるよ。君の涙は、すべて君の大切なザクリが浚っていってしまった」
「……そういう言い方が正しいかどうかは分からないけど……」
 フォニの故郷で、フォニの家族のザクリは、その涙で奇跡を起こすと信じられていた。繊細な心を持つザクリは、どんな小さな不幸にも涙を流し、その涙を見た者は心癒され、不幸の中にも希望を見出すことができる。あるいは、諍い事をその涙で鎮めたこともあった。
 けれど、ザクリがそうやって讃えられることが、フォニには我慢がならなかった。
 ザクリは心を痛めて涙を流しているのに、そんな彼女の姿を見て人々は歓喜する。そんな姿は、どこか歪で間違っている。彼女を守らなければ。
 フォニがザクリを守ろうと決めたそのときから、フォニは一瞬たりとも泣いたことがない。どんなに悲しくても、悔しくても、一滴の涙ももはや流れなくなった。生まれたときから共に過ごしたザクリと引き裂かれた、その瞬間でさえも。
「アルが感心していたよ。彼は君を見ていると、勇気づけられるそうだ」
 アルというのは、アルトゥアのこと。エラリィの所属する旅の劇団の音楽方で、彼に同行してフォニの道中の手助けをしてくれている。軽薄な印象の強いエラリィに対し、見るからに優しげで誠実な青年だ。
 フォニの旅にはもう一人、アラクネというミステリアスな女性が同道している。
「ザクリのことだけを考えているの。ほかのことを考えないでただ前を見ていれば、なにも迷うことなんてない」
「そう。フォニのそういうところが、アルには眩しく見えるのさ。彼は迷ってばっかりだから」
「そうなの?」
 気まぐれで快楽主義なエラリィを堅実にサポートするのが、この旅でのアルトゥアの役どころだ。どんなときでも常に最善の方法を導き出す状況判断の力は、旅の仲間全員が認めているし、そんな彼とエラリィの「迷ってばっかり」という言葉が、フォニの中では結びつかない。
「まあ、人にはいろいろあるよね。過去にも、未来にも」
 そう言ってエラリィは笑いと共に話題を吹き飛ばしてしまった。もうこれ以上は語るつもりがないらしい。
 二人はちょうど丘を下りきり、ふもとにある小さな一軒家の前まで戻ってきていた。一行の今晩の宿だ。といっても、本物の宿屋ではない。どの宿もすでに満室になっていたため、この町はずれの空き家を借りたのだ。
 居間へ上がると、フォニの鼻先をふんわりと柔らかい香りがくすぐった。
「おかえりなさい」
「……おかえり」
 台所から顔を出したアルトゥアと、今のテーブルで繕いものをしていたアラクネが、順に声を発した。
「ただいま。なんの匂い?」
「ああ。すぐに持って行きますから、座って待っていてください。エルも」
 エル、と、アルトゥアはエラリィをそう呼ぶ。エルとアル、語呂が良いし二人組のコンビらしいなとフォニはいつも思う。
 フォニがアラクネの隣に座り、エラリィがフォニの正面の席に着くと、アルトゥアが盆を手にやってきた。盆の上には、四つのマグカップ。
「ホットミルクです。温まりますよ」
 一つのマグカップがフォニの前に置かれると、あの柔らかい香りがいっそう強くフォニの周囲に漂った。なるほど、ミルクと言われるとその通りだと、このときようやく気づく。ほんのりと甘さを感じるのは、蜂蜜の香りだろうか。今まで、ミルクを温めて飲んだことがないから、はっきりとは分からないけれど。
「火傷しないように気を付けてください」
「そうは言ったって、ちゃんと火傷しないように少しぬるめにしてあるんだろう?」
 そう言って迷わずカップに口を付けたのはエラリィ。アラクネも、温度を確かめるようにカップを鼻先にしばらく留めた後に、そっと口を付けた。
 フォニは、二人がなにも言わずに二口目を飲むのを見届けてから、自分もカップに口を付けた。
「っ……あっつ……!」
 すでに二口目を飲んで一息ついたところだったエラリィが「くっ」と噴き出すのをこらえるような声を漏らした。フォニはそんなエラリィを半眼で睨みつけ、次いでアラクネの様子を伺う。
 アラクネはもともと無表情で口数の少ない女性で、このときも目立った反応は見せなかったが、隣に座ったフォニの角度からは、傾けたカップの影で、口元がやや引きつっているのが見えてしまった。
「フォニには少し熱すぎましたね」
「お子様には、って言いたいんだろ、アル」
 にやにやと笑いながらエラリィが言う。きっと最初からフォニがこういう反応をすることを見越していたのだろう。
「そっと、少しずつ飲めば大丈夫よ」
 感情の読めない声音と表情で語りかけるアラクネは、早くも立ち直っているようだった。けれど心なしか、いつもより口角が上がっているようにも見える。
 小さな宿の窓の外では太陽が沈み、藍色の夜が始まろうとしていた。



2015/05/09 初出
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お題:「牛乳はあっためてください」