速さの違う秒針

 耳元で、ぷつっと音が途絶えた。通信の途絶を意味する規則的な電子音が、左耳を叩く。
 今しがた電話の向こうの主がこちらへ告げた用件に、俺はしばらく思考を失った。
 ふと我に返って受話器を戻し、それからなんとなしに、身体全体に貼り付く衣服のことを考えた。仕事用に誂えた、フルオーダーの特別製だった。
 次いで左腕に巻いた時計を確認。今日が終わるまで、三時間と半分。ストップ・アンド・ゴーを小刻みに繰り返すのではなく、滑らかにゆっくりと回り続けるタイプの秒針が、暗がりの中に淡い蛍光色を浮かび上がらせていた。いつもはじれったいくらいに遅いその動きが、今日このときばかりは、やたらと速く感じる。
 腕を下ろして、目を閉じる。静かに息を整え、心臓の鼓動を正常値へ戻していく。
 俺は、暗い寝室を出て、明るい光の灯るダイニングへと戻った。

「仕事の電話?」
 彼女が言った。
 対面式のカウンターの向こう側のキッチンに立ち、中華鍋を慣れた手つきで煽りながら問うてくる。美味い上に美容と健康にも良い、という胡散臭い文句に釣られた三年前から、彼女は中華料理の愛好者になっていた。
「ああ。……なあ、おまえほんとになにやってきたんだ?」
「んー……。ねぇ、そんなことより手伝ってよ。お皿並べて。カトラリーも。二人分」
 彼女の振るう鍋の中で、炒められた野菜が何度も宙返りする。
「そんなことって……」
「手伝ってくれなきゃ、今後一切あなたとは口を利きません」
 鍋をコンロからはずし、用意していた器に手早く盛り付ける。彼女はさっきからずっと俺のほうではなく、中華鍋を注視していた。
 俺は諦めて、彼女の命令に従うためにカウンターを回り込んでキッチンに入った。食器棚から二人分の食器を掴み出す。
 彼女のそば近くを通るとき、料理の強い匂いに紛れて、彼女の使うボディーシャンプーが仄かに香った。
 昼過ぎに突然俺をを訪ねてきた彼女は、玄関で顔を合わせるや否や、風呂を貸せと言ってきたのだ。ついでに、昔置いて行った服があるなら、それも用意しておけ、と。
 そして一時間ばかり風呂に籠もった彼女は、今度は髪を乾かすのもそこそこに、俺の寝室に直行してベッドを占領、あっという間に寝入ってしまった。
 それからさらに五時間あまり熟睡した彼女が、目覚めて次に取った行動が、夕飯を作ることだった。かくして今の状況に至る。
 仕事の関係で知り合い、何年も前から親しくしている女だった。仕事でもプライベートでも、そんじょそこらの平凡なカップルよりはよっぽど濃密な時間を過ごしてきた自信がある。すべて、半年前までのことだが。

 食卓を手早くセッティングすると、彼女はそこへ大皿に盛った料理を幾つも運び込んだ。二人でどうやって食べきるんだというような量。うちにこれだけの食材のストックがあっただろうか。
「デザートもあるわよ」
 彼女が張り切って料理をするときは、特別なときだ。そして、今日は特に豪勢だった。
 二人で食卓を共にするときは、彼女が料理を選び、俺が飲み物を選ぶという暗黙のルールがある。俺はキッチンの隅にある据え置き型のワインセラーから、特に上等なボトルを一本抜き出した。高価な貰い物だが、使いどきが分からずに結構なあいだ寝かしっぱなしにしていたもの。ちょうど良いから、今日開けてしまおう。
「生憎と、中国酒は切らしてる」
「構いやしないわ。お酒はワインのほうが好きだから」

 二人向かい合って食卓に着き、ワインで満たしたグラスを掲げて乾杯する。なんのかんのと言い合いながら料理を取り分けて何品か食べ、まったくなくなる気配のないその量に、どちらともなく笑い出す。
 核心に触れる話題は一切なしに、過去も未来も語ることなく、今目の前に広がっている出来事だけ。それを語り合っているうちに、軽く一時間が過ぎた。今日が終わるまで、あと二時間を切った。
 最初のワインがどちらのグラスからもなくなった不意の静けさに、彼女は話題を変えた。
「……仕事先へは? あなたから電話したの? それとも向こうから来た?」
「向こうから来た」
 俺は席を立ち、二本目のボトルを取りに行く。今度は、慣れ親しんだお気に入りの銘柄を選ぶ。俺と彼女、二人で太鼓判を押したやつだ。
 席へ戻り、ラベルを彼女へ示すと、彼女は「きゃあ!」と心底嬉しそうな声を上げた。
 新しいワインが、二つのグラスに満たされる。
「仕事の命令だったよ。……今日中におまえを殺せ、だと」
 右手でワイングラスを弄りながら、俺は彼女の行動を慎重に観察した。恐れ慄いて変な行動に走られてはたまらない。
 ……だが、そんな懸念は杞憂で、彼女に限ってこの場で冷静さを失うはずはなかった。
 彼女は、料理の脂っけでてかる唇にワイングラスのふちを当て、一口分を流し込む。口内でじっくり味わってから、喉の奥へと嚥下した。
「わたしも甘っちょろいもんだわね。ここに来ることなんか、すっかりお見通しだったってわけ?」
 驚いている様子も、怒っている様子もなかった。まして、悲しんでいる気配すらない。すべてそうなることを、彼女自身もまた知っていたのだ。
 知らなかったのは、俺だけ。
 ……いや、心のどこかでは知っていたのかもしれない。半年前、彼女が突然失踪してから。自惚れでもなんでもなく、彼女が次に現れるとしたら、それはこの場所で、俺の前なのだろう、と。
「……どうしてもね、復讐したい相手がいた。殺し屋に弟子入りしたのは復讐のためだってのに、いざ殺し屋になってみたら、私怨での人殺しは一切禁止ってさ、詐欺みたい! そうやって腐ってたら、ある日あなたとペアになって……本当に感謝してるわ……わたし、あなたと一緒なら過去なんか全部忘れられって思ったの。……でも、復讐の火は消えちゃくれなかった」
 彼女は少し寂しそうに目を伏せたが、すぐに影を振り払うように勢い良く顔を上げた。そして、俺の好きな、すべてを包み込む聖母のような微笑みで、俺に言う。
「だからさ、未練たらしくわたしの服とか取っといたりしないで。わたしとあなたで決めたお気に入りのワインなんかいつまでも好きでいないで、もう全部捨てちゃってよ。……わたしと一緒に、ね?」
 俺は心の中で、時間の経過を計算する。今日が終わるまで、あと一時間ちょっと。開けたばかりのワインのボトルも、まだ残っている。
 次いで俺は、身体全体に貼り付く衣服のことを考えた。仕事用に誂えた、フルオーダーの特別製。大量の隠しポケットには、大罪を犯すためのありとあらゆる道具が忍ばせてある。
 さて、彼女を殺すにはどのポケットのどの道具が相応しいのか。それをどう使えばもっとも美しい死を彼女に贈ることができるのか。
 あと一時間で決めるには、なかなかの難題だ。



2015/05/15 初出
Twitter企画「#深夜の真剣文字書き60分一本勝負」参加作品
お題:「速さの違う秒針」「腹八分目じゃ足りない」