思い出せない名前

 この世は狂っていると、そう思ったから、剣を取った。くだらない理屈で、血を分けた肉親同士が殺し合って、その先に自分が生きているのだと考えれば、吐き気がした。
 ことわりを覆すだけの力が必要だ。この歪んだ秩序を糺すだけの、まったく新しい秩序が必要だ。この手で、この剣で、それを成し遂げようと思った。
 決断するのは簡単だった。迷うことはなかった。迷いを生むもののすべては、もう既に理不尽なやり方で奪い去られていたから。
 弥皐(やたか)は、そうやって生き方を選んだ。



 剣戟が、夜陰に木霊した。鉄の剣が地に落ちる、鈍い音が続く。
 果し合いだと言うからどれほどのものかと相手をしてはみたが、弥皐と相手の力量差は明白だった。剣を交えながらも欠伸が出そうなほど、相手の剣からは力も気迫も感じられない。それでも戯れに幾つか打ち合ってはみたが、これ以上は剣が無駄に摩耗すると断じて、刀身で相手の刀身の付け根のあたりを思いっきり打った。剣が、容易に相手の手から地面へ堕ちる。
「がっかりだな」
 剣を正眼に構えて、相手を睨み据える。試合ならばこの時点でもう勝敗は決しているが、これは果し合いだ。どちらかが死ぬまで勝負は終わらない。
 丸腰になった相手は、それでも一歩も引こうとしなかった。怒りに燃える目で、弥皐の隙を伺い続けている。
 命を賭けた勝負を、感情のままに仕掛けた時点で負けているのだ。怒りを鎮めて冷静に判断できていれば、こうして死に急ぐこともなかっただろうに。
「おまえには本当にがっかりだ。……おまえならば、と期待していた俺自身にも」
 果し合いは普通、他人同士では成り立たない。なんらかの関係を持つ二人が、その繋がりを断つ手段として行うものだ。
 今一度、相手を見る。その顔全体に満ちる怒りは凄まじいが、そこにある幼さが、弥皐には気になって仕方がない。釣り上がった目が本来は柔和に笑うことも、歪んだ口が紡いでいた声は、まだ声変わりも済まないあどけないものであったことも、弥皐はよく知っている。今は剣を握っていない手は、剣を持つよりも書物を紐解くことを好む、繊細な手。その感触を、弥皐は覚えている。
 その姿に、幾度となく救われてきた。そんな気が、今もしている。
「もう二度と、会うことはあるまい。夢にも。死したのちの世でも」
 剣を振るう。
 その身体がただのむくろに変わるその瞬間まで、双方の視線は交わり続けた。



 その不確かな記憶を、弥皐は月見の宴で思い出した。だが、肝心の相手の姿は黒く塗りつぶされて、思い出すことができない。ただ、怒りに燃える目だけが、印象として残っている。
 弟のように可愛がっていたのだったか、と他人事のように考えた。
 この世は狂っている。血を分けた肉親が――たとえ近しい兄弟でさえ――くだらない理屈で殺し合う。
 世の中を変えることは、まだできない。一人では到底成し遂げられず、共にならば、と期待した人物は、この手で切り捨ててしまった。
「月の御子……俺の片割れ……」
 さて、その名前をなんと言っただろうか。



2015/05/31 初出
Twitter企画「#創作キャラ×イメソン真剣60分一本勝負」参加作品
課題曲「ドーナツホール」(ハチ)