裏切りの日

 まったく、兄弟揃って面倒くさい奴らだ。
 昔から、泥沼の権力争いは見慣れていた。幼少期を仲良く過ごした兄弟姉妹が、なんの因果か敵同士になって互いを憎み、ときに殺し合う……そんな世界が、存在している。
 だから、一度はそうやって離散した兄弟二人が、今度は手と手を携えて共に国をつくろうと言ったときは、とんだ夢物語だと呆れもした。
 きっといつかまた、どちらかがどちらかの寝首を掻くような日が来るはずだと、心のどこかで思っていた。
 自慢ではないが、昔からそういう予想は当たるのだ。



「冴弓の様子がおかしい。見張りに立ってくれ」
 弥皐は眉一つ動かさずにそう言った。心配や、残念がっている気配は微塵も見えない。しかし、ほんのわずかに覗く緊張の色に、覚悟を決めたのだということはわかった。
「まったく、兄弟揃って面倒くさい奴らだ。隠れて伺うくらいなら、おまえから直接訊いてみたらどうだ?」
 弥皐の弟、冴弓は確かにここのところ少し兄を避けている。表面上はにこやかにしているが、内心で気を許していないのは明白だった。
 先日、故あって冴弓は大切なものを弥皐に取り上げられていた。冴弓の護衛として、彼のもっとも信頼するところであった一人の青年。冴弓に命の重さ、軽さを知らしめるのに、弥皐はその青年を利用した。
 冴弓がそのことを根に持っているのは間違いない。それが理由で弥皐と距離を置いたことも。
 それまで、周囲から見ても仲睦まじい兄弟だったというのに、ほんのいっときの心のすれ違いが、取り戻せない亀裂を生んでしまうものだ。
 冴弓が、真に弥皐の心中を解せるほどの器量の持ち主なら、まだ取り戻せるだろう。だが、それを期待するには、冴弓はまだ幼くて、心も弱い。
 そしてどうやら、弥皐の張った賭は、彼の負けに終わりそうだった。
 弥皐はこちらの質問には答えず、「頼んだ」とだけ言って、とっとと席を立ってしまった。逃げるように遠ざかる背中に、思わず舌打ちが漏れる。あいつも存外、肝が小さい。
「……俺はまたそういう役回りか?」



 新月に近い、細い細い三日月が闇に浮いている。
 小さな明かりを手に、足音を忍ばせて歩く影の前に立ちはだかり、問いかける。
「どこへ行くんだ、冴弓」
 大人と子供のあわいのような、背も体つきも中途半端な人影。夜陰に紛れる濃い色の衣服を纏う少年は、急に目の前に現れたこちらの姿に驚いて、立ち止まったついでに二歩、三歩と後ずさった。
「とも……」
 名を呼ばれる。冴弓のために新しく見繕った名前だった。
「まるでどこかへ逃げようという風情だな?」
「……兄上は?」
「ふん」
 思わず鼻から吐息が漏れる。この期に及んでまだ「兄上」とは。
「冴弓。弥皐は今のところ五分五分と見ている。戻るなら良し……戻らぬなら……それもまた致し方なし、といったところか。あの冷徹漢が五分もおまえに賭けてるってのは、相当な期待だぞ。……それで、おまえの答えは?」
「……戻らない」
 しばしの沈黙の末、まるで夜の闇に溶けそうなか細い声で冴弓は言った。後ろ髪を引かれているのが丸わかりだ。
 だから、弥皐が直接会って話せば良かったのに。他人の自分がなにを言ったところで、冴弓は動揺はしても決意を変えることはあるまい。
「戻れ、冴弓。おまえを見つけ、庇護した兄を裏切るのか」
「裏切ったのは兄上だ……!」
 冴弓の目に、怒りの色が宿る。
「僕の家族を、大事な人たちを奪ったのは兄上だ……! 僕のすべてを取り上げて、それでそばに置いて利用しているだけ……そんなの、鳥の風切り羽を切って鳥かごに入れるようなものじゃないか」
 風切り羽を切られた鳥は、飛ぶことができない。だが、風切り羽はたとえ切られてもいずれまた元通りになる。
 冴弓は、その未来を見通すことができなかった。過去に奪われたものの大きさに縛られて、時を止め、考えることをやめてしまった。
「……それで、どうするつもりなんだ? 鳥かごを出て、おまえはどこへ行く?」
「……この国を出る。兄上の手の届かない所へ行く」
 どうやら弥皐はそれほどに嫌われたらしい。否、もしかしたら、「手の届かない」という表現は、裏返せば「手を伸ばしてほしい」ということなのかもしれない。
「おまえはどうするんだ?」
「……俺?」
 冴弓の思いがけない問いに、思わず声が裏返った。
「おまえは兄上の臣だが、今は僕に仕えている形なんだろう? だったら、おまえは兄上と僕、どっちを選ぶ?」
「ん? そりゃあつまり、冴弓と一緒に俺も逃げようってことか?」
「…………」
 なるほど、冴弓の言うことも納得できる。この身は今のところ、弥皐に仕えつつ彼の命で冴弓にも仕えている。そして弥皐は、この期に及んでまだその命令を解除していないのだ。
 どうやら弥皐は、この身も弟と共に試そうという魂胆らしい。
 弥皐の言うことは絶対だ。少なくとも、そう考えるようにはしている。だが、その中で特に絶対服従すべき彼の「言葉」を一つ選ぶとしたら……それは、「冴弓を守れ」という命令よりも遙か以前に下されて、今もこの身をこの場所へ繋ぎ留めている、強い強い言葉だ。
「残念だなぁ、冴弓。一緒に行ってやりたいのはやまやまだけどな。……俺は、弥皐のつくる国を、奴の一番近くで見るって決めちまってるんだ。というわけで、おまえは一人で行け」
 冴弓の前に立ちはだかって道行きを塞いでいた身体をよけて、道を開けてやる。冴弓は目を丸く見開いた。
「……止めないの?」
「俺は「様子を見てこい」って言われただけだからなぁ……。王子様に手を上げるわけにもいかないし。俺はここでおさらばだ」
「とも……すまない。恩に着る」
「んなこたぁいいから。それよりも……後生だからもう二度と、俺の前に姿を見せないでくれよ」
 冴弓は律儀に頷いて、続く廊下の向こうへ消えた。
 その背中を、祈るような気持ちで見送る。同時に、その祈りは叶わないのだろうな、と心のどこかで諦めている自分が悔しかった。
 もう二度と、冴弓の姿など見たくない。次に姿を見るのならば、きっと、とてもひどいものだろうから。

 ここは東宮。王太子の統べる宮。この宮の主である弥皐を裏切って、果たしてここから逃れられようか。