風船の行方

 束ねられた麻製の垂れ糸を、大きな裁ちばさみでまとめて断ち切った。鋭利な刃物の挟撃に耐えかねて、垂れ糸たちはいとも容易くその身を真っ二つ。地面へと伸びていた下の糸はそのままポトリと地に落ちて、天へと伸べていた上の糸は、その先に結えられていた風船の力で、上昇を始める。
 彩りも鮮やかな風船の群れは、空いっぱいに広がってどこまでも昇って行く。青色の空を極彩色に塗り替えて、太陽の光を背負いながら、風船の群れは空を泳ぐ。短くなった垂れ糸の尾びれで大気を掻いて、そうしていつしか、雲と出会う。
 青空の中で、気まぐれに集まっては霧散していく雲は、空の船。その役割は、空の掃除係だ。雲は太陽の呼びかけに答えて現れ、雨を連れて空を一面洗って回る。空の覇者たる太陽にとって、地上からたまたま重力の網をくぐり抜けた風船たちは、空の秩序を乱すゴミに過ぎない。雲がおとした雨が、風船の群れには爆撃となって降り注ぎ、多くの風船が傷を負って地上へと、再び、重力の虜となって帰っていった。
 太陽にとって不都合なことは、雲がとても気まぐれなことだ。隊列を組んで掃除をすれば捗るものを、てんでばらばらに群れて離れて行動するものだから、どんな大きな雲にも必ず切れ目ができてしまう。雲の清掃時間に鉢合わせた風船たちの一部は、そうした切れ目から雲の上空へと逃げおおせた。もはや空を覆うほどの群れではなくなり、一つひとつがまるで孤独な旅人となったように、太陽の光に近い空を懸命に昇っている。
 太陽が近づくにつれ、そこに流れる大気は希薄になっていく。縦方向への長い旅を続ける風船のなかには、温度の上昇の大気の減少という二重の苦難に耐えかねて、身を萎ませて落下するものも現れた。重力の呼び声を振りきれずに、それらはあっという間に、地表へ向かって垂直に落下していった。
 そうして最後に残った風船は、ついに大気の支配から解放されて、まったき星の海へと至る。そこでは、もはや尾びれを振る必要もない。そこへ届く重力はほんの僅かで、そこに漂うあまたのちりあくたを地上へ呼び戻すだけの力は、存在しない。風船はそこで、あまた漂うちりあくたに紛れて、漂った。ここでは雨も降らず、身体が朽ちてしまうこともない。風船は、しばし停滞の時間を過ごした。
 風船はその場所で、月と出会った。太陽の光を受けて喜怒哀楽するその姿へ、風船はとても強く惹かれていく。そうして、惑星を巡るデブリを抜け出し、真に重力から解放された海へと漕ぎ出していく。それは、大気を泳ぐよりもとても難しかった。大気は太陽と重力、双方の良き友である。風船を空へと持ち上げてくれるのと同時に、空を目指す風船の頭を抑え込んで抵抗もしていた。その複雑な力の調和が、最後は推進力となって、風船をついには惑星の外へと押し出した。
 それに比べて、無重力は無慈悲だ。風船はそこで、自分の力で月を目指そうと、ほんの少しだけ上へと飛び上がった。ところが、力の引っ張り合いの存在しない無重力のなかでは、自発的な力は途端に制御を失う。
 風船は、月へ向かって弾丸のように落ちていく。月の中核が持つほんのわずかな重力に惹かれて、その速度はますます加速して、ついには彗星のような速さで月の表面へと激突して、大きなクレーターを生んだ。
 惑星の地上にいる裁ちばさみは、そんな壮大な物語を知らない。



2015/07/04 初出
Twitter企画「#深夜の真剣物書き120分一本勝負」参加作品
お題:「雲」「彗星」「ハサミ」