「だからね、このままでは承服できないと言っているのよ」
オーク材の立派なテーブルにそっと握り拳を置いて、女は向かいに座る相手を笑顔のまま睨み付けた。前のめりの姿勢は、今にも獲物に躍りかかりそうな狼を彷彿とさせる。
対する人物は、よそ行きの少し洒落たスーツを着た若い男。先ほどから首元のクラバットタイに差したピンが気になるのか、右手の指が執拗にピンに触れている。座れば深く沈み込んでしまうソファに座って器用に背筋を伸ばし、顔には必死な微笑を浮かべている。
不穏な空気を放つ二人の空間に、蓄音機のスピーカーから控えめな音量で管弦楽が流れている。四拍子のゆったりとした曲調はさながら「落ち着け」と歌っているようでもあったが、残念なことに二人の耳には届いていない。
「わたしたち、結婚の相談をしているのよね? あなた、今まで結婚についてそんなに不真面目な考えしか持っていなかったの?」
「不真面目だなんてとんでもない。僕は真剣だ! だから君の言う通り、百歳までの人生設計だってちゃんと組んだじゃないか」
「このオマヌケな紙切れのことかしら?」
そう言って女は、テーブルについた握り拳を浮かせ、テーブルの上に広げられた紙の上に振り下ろす。今度こそ、テーブルはどんっと重い音を立てた。
「オマヌケ……」
「言いたいことがありすぎて頭が痛いわ……。とにかくこんないい加減な設計図で二人の愛を築いていこうなんて、あなた、本当に結婚をなめすぎよ! わたしには到底耐えられない!」
「いや、僕は別に……」
反論を試みる男の前に、女は今度は拳ではなく分厚い一冊の本を叩きつけた。豪奢な図案を施した表紙には金箔で「国語辞典」と書かれている。
「あなたには、今回の結婚の件、悔い改めて一から考え直してもらうわ。まずはそのデタラメな人生設計図よ。とにかく誤字脱字、不適切な単語の使い方が目立って読めたものじゃない。設計図の段階でこんなガタガタでどうするっていうの!」
女は人生設計を記した紙を掴み上げると、国語辞典の上にピシャリと載せる。次いで、テーブル上にあらかじめ据えられているレターパッドとペンをずずいっと男のほうへ寄せた。
「さあ、わたしが見ていてあげるから、今この場で作り直して! ……ちなみに、これだけじゃ終わらないからね! 明日からも毎日、ティータイムとディナータイムのあいだにみっちりと花婿修行をやるから」
「いやいや、僕は平日は仕事が……」
「なに悠長なこと言ってんの! 問答無用で有給取ってきなさいよ! つわりだとか言って!」
「その理由はおかしいよね!?」
「っとにかく! ……婚約が成立した以上、わたしが満足するお婿さんになるまで、しっかりみっちり心得を叩き込むから。さあ、辞書を開いて!」
鼻息も荒く言い放った女を前に、男はたじたじとテーブルに目を伏せ、辞書と、白紙のレターパッドに向き合った。……結局、ディナータイムまでと言われていた刻限はあっさりと反故されて、男が女から解放されたのは、間もなく深夜になろうかという時間だった。
「今日はこのくらいにしておいてあげるわ」と捨て台詞を残して女がさっさと退室してしまうと、少しの間を置いて、今度は別の女が、前触れに控えめなノックを鳴らして入ってきた。しずしずと男のもとまでやって来て、手に持っていたトレイからティーカップと、サンドイッチを載せた皿を男の前に置く。
「ごめんなさいね。疲れたでしょう?」
男の座るソファの横に膝を付いて、女は不安げに男の顔を覗き込んだ。目が合うと、男はその日初めて、穏やかで自然な笑みを浮かべた。
「いやぁ、覚悟はしていたつもりだけど、想像を遥かに超えてたよ……小姑さんの婿いびり」
「妹なりに、たしたちを気遣ってのことなのよ。でも、真剣に付き合う必要なんてないわ。きっと妹だってすぐに飽きると思うし……」
「いいや」
男は開かれたままの辞書と、テーブル上に散らばった書き損じの紙たちを眺める。一番近くの手元には、彼女の妹が及第点を与えた、新しい人生設計図の草案。およそ自分の姉の結婚に関して、彼女は決して妥協しないだろう。
「身体が持つ限りは、とことん付き合うよ」
読んでみて、と、男は婚約相手であるその女に及第点の草案を差し出した。女が紙を受け取って読み進めるあいだ、彼女が用意してくれた紅茶とサンドイッチにありつく。初めはくすくすと笑っていた彼女の声が、だんだん小さな嗚咽に変わっていくのを、男は黙って聞いていた。
祝福の方法は、人それぞれだ。
2015/07/11 初出
Twitter企画「#深夜の真剣物書き120分一本勝負」参加作品
お題:「スピーカー」「真のヒロイン」「辞書」