女王様と僕

 僕が、お酒も紅茶も好きではないのだと困り顔で言うと、彼女は笑って傍に控える侍女に命じて、マグカップに満たしたチョコレートドリンクを用意させた。
「こういうところに来る人は、ちゃんと大人の社交辞令を身に着けているものよ。普通はね」
 ふかふかすぎて妙に居心地の悪いソファに、僕は彼女と並んで座りながらずっとドキドキしていた。なんで向かい合うのではなく、隣で密着しながら座って話さなければいけないんだろう。さっき不意に、華やかな香水の匂いに石鹸の爽やかな香りが混ざることに気付いて、もう平常心でいるのが大変なのに。
「あなたがもし、なにも知らない子供のフリをしているわけでもなくて、あるいは、あの人にわざとなにも教えられずに来たのでなければ、ね」
 僕が十五歳で、彼女はもうすぐ三十歳なのだと聞いていた。倍も年齢が違う女性に恋愛感情を抱くなんてあり得ないと高を括っていた。それなのに、実際に会った彼女は母親のような優しさと同時に、触れるものをことごとく絡め取るような底の知れない魅惑をも持っている。
 彼女はその魅力で、過去に多くの男を手玉に取り、そして今もたくさんの愛人を毎晩とっかえひっかえして侍らせているのだという。「悪女」という風評が拡がる一方で、そんな彼女に一目置く者たちも多い。彼女が男たちとの関係を一夜の「お楽しみ」にしているのではなく、その夜を足掛かりにしてより多くのものを手に入れようとしているからだ。

 女王様。

 揶揄ではなく、彼女は正真正銘、一つの国の王座にある人だ。
 先王から受け継いだ肥沃な国土を、女だてらに守り拡げながら、彼女の帝国は今、「大国」の名で呼ばれ、かつてない隆盛を誇っている。
 僕の隣にいる人は、おそらく今の世界で一番の有名人。そして、彼女に選ばれた僕は世界でもっとも栄誉のある男の一人なんだろう。
 けれど、この場で彼女と対峙するには、僕は経験不足を否めなかった。気の利いたこともなにも言えず、鼻腔に流れ込む匂いと布越しに触れる体温にどきまぎするばかりだ。
 そんな状況に助け船を出したのだろうか、彼女のほうから話題を切り出す。
「わたしの昔話は、お父上から聴いているかしら?」
 僕は首を横に振る。彼女の半生なら、ここへ来る前に幾度となく反芻して学んでいた。けれど、ここへ行くようにと命じられる以外に、父から彼女の話を聴いたことは一度もない。
 彼女は素っ気ない声で「そう」と頷く。「話さなかったのね」と、こちらは独り言。
「わたし、昔はあなたのお父上の婚約者だったのよ。うちの王位継承権上位の兄上たちがことごとく亡くなってしまわなければ、わたしはもしかしたら、あなたの母親だったかもしれないの」
「……あなたが父と結婚していたなら、僕のほうがこの世にいなかったのではないでしょうか。僕の母は、父の妃一人だけです」
 咄嗟に反論が口を突いて出た。直後、彼女の不興を買ったかもしれないと焦ったが、彼女は「ははは」と声を上げて笑った。「それもそうね」。そう言ってひとしきり笑った彼女は、ふと視線を虚空へ移す。
「……本当に好きだったの。婚約がご破算になって、それであなたのお父上がお妃様を娶ると知ったとき、どれだけこの胸を掻きむしって身悶えたか……。あなたのお母上とわたしは、社交界ではそこそこ仲良しだったけれど、婚礼の日に顔を合わせて以来、もう文の一つも交わしていないわ」
 彼女は虚空を見つめていた目を再び僕のほうへ引き戻して、おもむろに左手を僕の頤(あご)にかけた。なんの飾り気もない手。その薬指の付け根に、一本の傷痕がはしっているのがちらりと見えた。
「目の色はあの人と同じね。形もよく似ている。でも、全体で見ればあなたは母親似なのね。憎らしいほど、あの女に似ているわ」
 間近に覗き込むように見られて、彼女の吐息が鼻先にかかる。遠目には甘やかな顔立ちに見えるのに、間近に見る眼差しははっとするほど力強く僕を射抜いた。けれど、「憎らしい」と言った言葉とは裏腹に、その目は僕のなかに父の面影を求めるように切なく揺れた。
 僕にもし、彼女に恋に落ちる瞬間があったのだとしたら、それは今このときだと思う。だけど、今の僕は、それを判断するにはあまりに経験不足だった。ただ、僕を見て一瞬だけ揺れた瞳が、僕ではない誰かを見ていることに、胸の奥が憤りでかっと熱くなった。
「わたしは無力な王女から、今や世界の誰もがひれ伏す女王になったわ。あなたのお父上が、かつての誼に縋って一夜を求めてきたけれど、わたしは拒否した。皮肉な話よ。すべてを手に入れられる立場になったのに、かつて一番欲しかったものだけは、もう絶対に近付けないと心に決めてしまったのだから」
 彼女はわざとらしく肩を竦めて、それから冷ややかな声で言う。
「そうやってわたしに全面拒否されたお父上が送り込んできたのが、あなたというわけ」
 束の間見えた侮蔑の表情は、僕自身に向けられたものか、あるいは僕の背後にある父親に対してのものなのか。
「あなたをわたしの男妾にしてわたしに媚びを売ろうというの。どうしてかつての最愛の人を拒否したわたしが、その息子なら受け入れられるだろうと思うのかしらね」
 顎にかかった彼女の手が離れていく。なにやら雲行きの怪しい話に、もしかしたらこのまま追い出されるかもしれないと、焦りが募る。
 けれど直後、これならできるかもしれないとひた隠しにしてきた感情が胸に満ちる。やってみる価値はあるかと自問する。やらなければすべてが水泡に帰す。ならば、行動を起こすまでだ。
 僕は、勇気を総動員して、伏せがちにしていた視線を上げた。彼女と対等に向き合おうとするほど、そのオーラと強い視線に押しつぶされそうな気がした。全部、我慢する。チャンスは一度きりだ。
「あなたが今も結婚されていないのは、父のせいですか?」
 何人もの男と情を交わしながら、彼女は未だに一度の結婚経験もない。
「……そうだとしたら?」
「可哀想な人」
 高貴な身分の女性にとって、結婚は存在意義の大半を占める。結婚して二つの家を繋ぐことを義務付けられて、そのために厳しい教育を受ける。この大陸中の王家同士は、そうやって複雑に絡み合って危うい秩序を保っているのだ。
 結婚を放棄するということは、女として生きることを捨てるに等しい。
 彼女は、やや不快げに鼻を鳴らした。
「確かに、あの婚約解消がわたしの心に影響を与えたのは間違いないわ。でも、結婚をしないのは面倒臭い夫婦の義務に縛られたくはないからよ。家庭を築くには時間がかかるし、忍耐が要るわ。わたしにはそんな余裕などないもの。それに、直系でなくても王位継承権を持つ者たちなら面倒臭いほどたくさんいる。養子を取ったっていいし、わたしの実子である必要はない」
 裏に憤りを秘めた言いぐさは、彼女がまだ女としての幸せを諦めていないことの裏返しだろうか。意外と感情的な人なのかもしれない。
 僕は意を決して本題を切り出す。
「僕の話をしてもよろしいですか?」
 真剣な目で問うと、彼女はすぐさま居住まいを正した。「どうぞ」と促すように。
「僕は、父の秘蔵っ子です。文字通り、世間から隔絶されて厳しい管理下で育ちました。……あなたの「遊び相手」になるためだけに、それ以外の道を鎖されて、今日まで生かされてきたんです」
 彼女はなにも言わず、ただ僕の言葉を推し図るようにじっと目を見つけてくる。冷静でいるよう心に強く命じるが、恥ずかしくて赤面していないか不安だ。なにせあの鳥かごのなかで、僕はまともに女性を知る機会も与えられなかった。下手に女慣れしていては逆に彼女の興を削ぐだろうと、父がそう判断したから。
「父は、僕を自分の分身か操り人形のように考えて、あなたと、あなたの国と誼を通じることばかりを僕に強制しています。でも、僕には僕の思いがあって、考えがある。……そのうち、こんな考えを抱きました」
 見つめる彼女の瞳がきらりと光ったように見えた。さすがは大国の女王様。僕のような子供の言いたいことなど、おおかた悟っているようだった。それでも、彼女は「聞かせて」と促す。
「すべてが上手くいって、僕があなたの男になれたなら。あなたの力を借りて、父の国を僕のものにしたいんです」
 本当は黙っていようと思っていた。彼女を利用せんとする僕の魂胆に落胆して、彼女は僕を受け入れなくなってしまうと思った。でも、もしかしたら、彼女と僕は共謀者になれるかもしれない。今も彼女の心に燻る熾火を再び呼びおこせたなら。
「難しいわよ」
 それまで黙っていた彼女が、間髪を入れずに言った。ただし、それが拒絶ではないことは瞳にぎらりと宿る野心の光を見ればわかる。
「わたしの「お気に入り」になるのは、簡単じゃないわ。それに、それが叶うとしても、あなたが可愛いお人形さんであることに変わりはない。所有者が父親からわたしに代わるだけのことよ。それでも?」
 「それでも、わたしに挑むの?」。彼女は問いかけと同時に、右手の甲を僕の前に晒した。僕は迷わずにその手を受け止めて、口づけを落とす。「ふふ」と彼女が満足げに微笑む気配が、上から降ってきた。
「あなたって本当に礼儀知らずね。睦言の前に物騒な話をするなんて、本来ならご法度よ。……でも、今回は許してあげる」
 手の甲への忠誠のキスと、か「許してあげる」という言葉が孕んだサディスティックな響きに、僕の心がふわりと浮き立つ。酒に酔ったことはないけれど、「酩酊」とはこういう状況なのかなと思わせる、妙な昂揚感と非現実感が胸から溢れて、足先までじんわりと麻痺させる。
 僕は伏せていた顔を上向けた。上目を遣いながら彼女に媚びるように問いかける。
「教えてください。僕は、どうしたらいいですか?」
「いいわ。教えてあげる」
 彼女は嫣然と微笑んで、繋がった手を優しく包むように握り返してきた。
 僕は急に喉がカラカラに乾いたことを意識した。横目に見た手つかずにチョコレートドリンクからはもう湯気は上がらず、表面は凝固しかけて、どうやらすっかり冷めてしまっているようだった。